本庄神社
所在地:佐賀市本庄町大字本庄1156
撮影日:2015年01月01日、2018年01月01日
掲載写真:13枚
主祭神:豊玉姫命(與止日女命)
創建:欽明天皇二十四年(563年)九月二十八日又は欽明天皇二十五年
本庄神社(ほんじょうじんじゃ)は佐賀県佐賀市本庄町にあります。
欽明天皇25年(564年)に創建されたと各史料では言われていますが、本庄神社のリーフレット『本庄神社略記』では欽明天皇24年(563年)に(與止日女命の)神霊が現れ、社殿を建立して祀ったことが始まりとなっています。そしてこの本庄神社の創建由来は、本庄神社から1.5kmほど東側に位置する與賀神社(よかじんじゃ)の創建由来とほぼ同じです。同じような創建由来の神社が2つ‥‥面白いですよね。
現在、本庄神社の祭神は「豊玉姫命」です。「豊玉姫」は初代天皇である神武天皇の祖母です。
本庄神社の祭神である「豊玉姫命」は、本庄神社及び與賀神社では「與止日女(よどひめ)命」と同一神だと考えられています。でも、佐賀市大和町の與止日女神社では、祭神は「與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている」となっており、與止日女命は神功皇后の妹だと言っているため、豊玉姫命と同一神ではないわけです。(神功皇后は第14代仲哀天皇の妻であり、初代天皇の祖母である豊玉姫とは時代が違いすぎます)
ここら辺のことは書き始めると止まらなくなりますので、「與止日女命」と「豊玉姫命」の関係については、「與止日女神社」ページのクッソ長い文章をご覧ください。でも、マジで長い文章なのでスルー推奨です。
まあ簡単に説明すると、『肥前国風土記』に記述されている石神「世田姫」が、その名前の読み「よたひめ」から「よとひめ」「與止姫」へと変化し、同時に読みが「ゆたひめ」へと変化したことで「豊姫」という文字があてられ、しかも『肥前国風土記』には海神である鰐が訪れていたという記述があったため、海神つまり「豊玉姫」が連想されて、「與止姫」=「豊玉姫」という認識になった、というのが管理人の考えですけど、こんな文章では意味不明ですね。はははー。
本庄神社の創建については、下記で改めて説明したいと思います。
(與止日女神社のくだりは何だったんだ!w)
本庄神社の境内には立派な一の鳥居(肥前鳥居:慶長11年[1606年]製)や佐賀県の重要文化財に指定されている二の鳥居(肥前鳥居:慶長8年[1603年]鍋島直茂奉納)、石造太鼓橋などがありますが、管理人は駐車場からどーんと入ったため当然のごとくスルーです。
こうやって調べてみて初めて「あ、スゲーものがたくさんあったんだ」と気づいた次第。なので写真はありません。拝殿の写真しかありません!
このサイトを作った当初(2014年08月)は、本庄神社狛犬ページに狛犬の写真だけを掲載して、神社に関する説明も狛犬ページにちょこっと書いていただけでしたが、今回の編集で本庄神社の創建由来を調べたら、狛犬ページに記載するには長すぎる説明になってしまったので、こうやって独立した神社ページを作ることにしました。
文章を書きたいがために神社ページを独立させたので、掲載している写真は拝殿の写真だけです。
いつか、まともな神社の写真を撮影したいと思っています。
【計13枚掲載】
記:2018年05月31日
本庄神社拝殿と本殿の写真です。拝殿の後ろに本殿があります。
本庄神社のリーフレット『本庄神社略記』によると、本殿は入母屋権現造で、19世紀中頃の建築物だそうです。1850年頃に造られたものなのでしょうね。
お参りするために拝殿前に並んでいた時に何気なく写真を撮影したんですが、後日その写真をよく見たら拝殿の鈴の上らへんに装飾物(狛犬らしき像)がありました。鳩よけみたいなネットの奥にあるので画像を見てもわかりにくいんですが、狛犬なのか獅子像なのか‥‥たぶん獅子像なのでしょうね。こういう感じの像が鵜戸神宮にもあったし。
本庄神社は鍋島家から崇敬されていたので、獅子像っぽい像の下に鍋島家の杏葉紋が彫刻されています。
本庄神社の拝殿前の狛犬です。
画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。
享和2年(1802年)に造られたもので、阿形は口の中に玉があり、吽形は口を閉じています。
なかなかユーモラスな表情の狛犬です。
吽形にはメスの印があり、阿形にはオスの印があります。
オスの印がある狛犬は湊川社で見たことがありますが、メスの印まである狛犬は初めてです。
狛犬サイトの方で、拡大写真を掲載しています。
【狛犬サイトへ】
ここからは本庄神社の御由緒・創建について、管理人が調べたことを書いてみたいと思います。
本庄神社の祭神と創建由来をさらっと紹介しようと思っていただけなのに、なんだかどんどん深みにハマってしまって、収拾がつかなくなってしまいました。
管理人が持っているリーフレット『本庄神社略記』では、本庄神社創建は欽明天皇24年と書いてあります。なのに他の史料やサイトでは欽明天皇25年創建と書かれているんです。「これってどういうことなの?」と疑問に思ったのが、今回の調査のきっかけです。
本庄神社から1.5kmほど東に行くと與賀神社(よかじんじゃ)という神社があります。
與賀神社は鎌倉時代から史料にその名が見え、1513年には「正一位」の神階も授けられており、本庄神社よりも格が上の神社です。でも調べていくうちに管理人は、本庄神社の由来を塗り替えてしまったのが與賀神社なのではないか、と思うようになってしまいました。
管理人の妄想で話を進めていますので、根拠とか論旨はめちゃくちゃだし信用しなくてけっこうです。
ただ管理人はそう思っただけ、そうだったらいいなという願望を書きまくりました。
ものすごい長文ですから、読まなくて結構です。
これは管理人の自己満足ですから批評も批判もいりません。たかがファンタジー文章に目くじら立てて批判するなんてナンセンスなことはおやめください。
とりあえず章立てしているので、目次を書いておきます。
本庄神社の創建由来を調べていただけなのに、話は與賀神社に派生し、與賀神社の神宣を書き下したり、とうとう逸年号(私年号、九州年号)まで調べる羽目になりました。このページの文章を書くのに1ヶ月かかりましたので、論旨が破たんしていても全部大目に見てください。管理人は疲れました。
ちなみに、このページに掲載している画像や表は、クリックすると拡大します。
<目次>
1. 本庄神社の祭神
1-1. 本庄神社略記(リーフレット) / 1-2. 與賀神社パンフレットに記載された本庄神社祭神
1-3. 本庄神社の鳥居の神額(1600年代)/ 1-4. 佐賀県神社誌要の本庄神社
1-5. さがの歴史・文化お宝帳の本庄神社 / 1-6. 本庄神社の神社名の推移
1-7. 本庄神社の祭神について
2. 本庄神社と與賀神社の創建由来
2-1. さがの歴史・文化お宝帳 / 2-2. 肥前古跡縁起の本庄神社
2-3. 肥前古跡縁起の與賀神社 / 2-4. 太宰管内志の本庄神社
2-5. 太宰管内志の與賀神社 / 2-6. 佐賀県神社誌要の與賀神社
2-7. 本庄神社と與賀神社の位置関係
3. 関係史料比較表と疑問点
4. 管理人の妄想での本庄神社と與賀神社の関係
4-1. 與賀神社は鎮守宮 / 4-2. 妄想:與賀神社は本庄神社から勧請された
4-3. 妄想:與賀神社が正一位となった理由 / 4-4. 妄想:本庄神社が再興された理由
4-5. 妄想:慶長8年に鳥居を造立した直茂 / 4-6. 妄想:江戸時代の本庄神社と與賀神社の関係
4-7. 妄想:本庄神社のプライド(欽明天皇24年創建)
5. 知僧元年甲申九月二十八日を考える
5-1.「知僧」比定表 / 5-2. 與止日女命の神霊が現れたのが欽明天皇25年になった理由
5-3.『肥前古跡縁起』はなぜ「知僧」を使ったのか / 5-4. なぜ本庄神社は欽明天皇24年創建なのか
いつ頃だったか忘れてしまいましたが、管理人が本庄神社を訪れた時に手に入れたリーフレット『本庄神社略記』には、本庄神社の御由緒や文化財の説明、伝説の紹介などが記載されています。
現在もこのリーフレットをもらえるのかはわかりません。管理人は平成になってからこのリーフレットを頂いたと思いますが、もしかしたら現在は内容が改訂されているかもしれませんね。とはいえ少なくとも以前は本庄神社に行けばもらえた由緒書きなので、本庄神社が公言している正式な由緒、つまり本庄神社の正史だと考えて差し支えないでしょう。
リーフレットの主要な部分を書き出してみます。
二、御祭神
豊玉姫命
仁徳天皇 日本武尊 天照皇大神 日子神 伊邪那岐神 龍王神 猿田彦神 表筒男命 中筒男命 底筒男命 菅原道真 稚郎子神 香語山神
三、御神徳
豊玉姫命は神武天皇の御祖母にます尊い神様であります。
海の神・川の神・水の神として広く信仰され、現在では本庄・西与賀の氏神様として御神威あらたかであります。
四、由緒
欽明天皇二十四年(五六三年)九月二十八日の夜、末次村の丹次郎が大塚妙見の松原にて神霊を感じ、領主小寺左衛門大夫に告げ、小寺左衛門朝廷のゆるしを得、社殿を造立す。以後、近郷の崇敬厚く、特に鍋島家発祥の地の氏神として、永正九年(一五一二)鍋島清久公が社殿を再興し、天文二年(一五三三)に鍋島清房公、慶長一七年(一六一二)に鍋島直茂公が社殿を修復、承慶元年(一六五二)から寛文三年(一六六三)にかけて鍋島光茂公が社殿を新しく造営した。
本庄神社の主祭神は「豊玉姫命」です。
他に「仁徳天皇」「日本武尊」「天照皇大神」「日子神」「伊邪那岐神」「龍王神」「猿田彦神」「表筒男命」「中筒男命」「底筒男命」「菅原道真」「稚郎子神」「香語山神」が祀られており、『本庄神社略記』では合わせて十四柱が祀られていると記載されています。
また、本庄神社の創建は欽明天皇24年(563年)に遡ることがわかります。
簡単に本庄神社の歴史を書き出しておきます。
●欽明天皇24年(563年)9月28日の夜に、末次村の丹次郎が大塚妙見の松原で神霊を感じた
●丹次郎は領主の小寺左衛門大夫に告げた
●小寺左衛門大夫は朝廷の許しを得て、社殿を造立した
●永正9年(1512年)鍋島清久公が社殿を再興
●天文2年(1533年)鍋島清房公が社殿を修復
●慶長17年(1612年)鍋島直茂公が社殿を修復
●承慶元年(1652年)から寛文3年(1663年)にかけて鍋島光茂公が社殿を新しく造営
(和暦に「承慶」は存在しないため、西暦年より「承応元年(1652年)」のことだと思われる)
また昔から「与賀淀姫大明神、本庄の神と一体分身なり」、「本庄・淀姫・与賀三身同一体なり」の言伝えがあり、本庄神社(旧郷社)・与止日女神社(肥前一の宮、旧県社)・与賀神社は共に御祭神は与止日女神で、いづれも欽明天皇二十五年の御鎮座と伝えています。旧社格県社。
本庄神社から1.5kmぐらい東に行くと、與賀神社(佐賀市与賀町)があります。この與賀神社のパンフレットの中に本庄神社に関する記述があったので、該当部分(画像左側)を撮影してみました。
ちなみに管理人は、このパンフレットをいつ頃もらったのか覚えていません。本庄神社と同じく平成になってからもらったものだと思います。
さて、與賀神社パンフレットには「与賀淀姫大明神、本庄の神と一体分身なり」とあります。與賀神社(与賀淀姫大明神)は本庄の神と一体分身、つまり同じ神様を祀っているという言い伝えがあるそうです。
また、「本庄・淀姫・与賀三身同一体なり」という言い伝えにより、佐賀市本庄町の「本庄神社」と佐賀市大和町川上の「與止日女神社」、佐賀市与賀町の「與賀神社」の3つの神社の主祭神は同一神「与止日女神」(與止日女命)であると與賀神社は断言しています。
先ほど紹介したリーフレット『本庄神社略記』では、本庄神社の祭神は「豊玉姫命」でした。
與止日女神社の祭神は、與止日女神社の公式ホームページでは「與止日女命」です。
與賀神社の祭神は、パンフレットでは「與止日女神(豊玉姫命)」となっています。
與賀神社には「三身同一体なり」という言い伝えがあるのですから、この3つの神社の祭神は同一神、つまり、「與止日女命」と「豊玉姫命」は同じ神様である、ということです。
つまり、本庄神社の主祭神「豊玉姫命」は、イコール「與止日女命」だということになりますね。
さらに、與賀神社パンフレットには「いづれも欽明天皇二十五年の御鎮座と伝えています」と記載されています。「本庄神社」「與止日女神社」「與賀神社」はすべて欽明天皇25年の創建だと與賀神社には伝わっている、ということだと思いますが、本庄神社の正史『本庄神社略記』では、創建年は欽明天皇24年でした。
創建年がズレていますが、なぜでしょう。ちょっと気になります。
管理人は駐車場からまっすぐ拝殿を訪れたので実際に鳥居を見ていませんが、本庄神社には「一の鳥居」と「二の鳥居」があるそうです。どちらも肥前鳥居で、拝殿に近い方が「二の鳥居」です。
ネットで検索してみたら「一の鳥居」は慶長11年(1606年)建立で、神額には「淀姫大明神」とあるそうです。また、「二の鳥居」は慶長8年(1603年)建立で、神額は「本庄淀姫大明神」だそうです。
「二の鳥居」は佐賀県の重要文化財に指定されており、両柱には「大日本國鎮西肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神奉建立石烏居二柱 大徳本主鍋鳴加賀守豊臣朝臣直茂 慶長八年癸卯九月廿八日」との銘が入っているとのこと。(『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』「石造肥前鳥居 慶長八年の銘あり 一基」ページより)
●一の鳥居
慶長11年(1606年)建立
神額「淀姫大明神」
●二の鳥居
慶長8年(1603年)建立
神額「本庄淀姫大明神」
両柱「大日本國鎮西肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神奉建立石烏居二柱 大徳本主鍋鳴加賀守豊臣朝臣直茂 慶長八年癸卯九月廿八日」
鳥居の神額や銘より、1600年代の本庄神社は「本庄淀姫大明神」と呼ばれていたことがわかります。二の鳥居の銘より、本庄神社は「佐賀郡与賀荘」にあり、正式な名称は「佐賀郡与賀荘本荘淀姫大明神」だったと思われます。
上記で紹介した與賀神社パンフレットには「与賀淀姫大明神、本庄の神と一体分身なり」という言い伝えがあったと記載されていましたが、本庄神社の鳥居により、それが証明されたとも言えますね。本庄神社は間違いなく江戸時代初期の時点で「本庄淀姫大明神」と呼ばれていたのですから。
本庄神社の鳥居の神額や銘より、かつて本庄神社は「本庄淀姫大明神」と呼ばれており、祭神は「淀姫(與止日女命)」だったことがわかっています。
ところが大正年間になると、本庄神社の主祭神は「豊玉姫命」です。これは、大正15年(1926年)に出版された『佐賀県神社誌要』の本庄神社ページに明記されているので、間違いないと思われます。
該当ページ部分を紹介します。画像は、「国立国会図書館デジタルコレクション」より引用しています。
郷社 本庄神社
佐賀郡本庄村大字本庄
祭神 豊玉姫命
仁徳天皇 日本武尊 天照皇大神 日子神 伊奘那岐神 龍王神 猿田彦神
欽明天皇二十五年の勧請にして、代々の国司藩主の崇敬篤く、郷中の産土神と仰ぎ祭祀も怠らず、明治四年十二月郷社に列せらる。祭神仁徳天皇外六柱の神は、無格社合祀により追加せり
明治四十年二月十五日神饌幣帛料供進指定
氏子戸数 八百十七戸
『佐賀県神社誌要』の記述によると、主祭神は「豊玉姫命」です。
明治4年(1871年)12月に郷社となり、「仁徳天皇」「日本武尊」「天照皇大神」「日子神」「伊奘那岐神」「龍王神」「猿田彦神」の七柱が無格社合祀により追加されています。
「無格社」とは、1871年(明治4年)制定の神社社格の一つで、1945年に廃止されています。
無社格は旧神社制度でいちばん低い格の神社ですが、独立の神社として政府が公認した点では他と異ならず、ただ神饌幣帛料が供進されることや境内地の地租免除の特典がなかった神社です。(【コトバンク「無格社」】記載文参照)
つまり、本庄神社には無格社として七柱を祀った社があって、それらは本庄神社に合祀されたということですね。下記で紹介している『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』の「本庄神社」ページでは、明治40年に近くの雑社二十八社を集めて合祀したとの記述があります。
ちなみに本庄神社創建に関しては、『佐賀県神社誌要』では欽明天皇25年(564年)に勧請されたと記述されています。リーフレット『本庄神社略記』では創建年は欽明天皇24年でした。創建年がズレていますね。
『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』というサイトの「本庄神社」のページにも、本庄神社の由緒についての記述があります。このページに記載されている文章は、「かたりべの里本荘西分P.31本荘の歴史P.19」が出展となっているようです。
このサイトは佐賀市の歴史や文化に関する調査内容をまとめたサイトなので、このサイトに記述されている内容が、いわゆる正史的なものだと考えて良いと思われます。
【本庄神社】(「さがの歴史・文化お宝帳」より引用)
本庄妙見山淀姫大明神の本地は十一面観世音で第29代欽明天皇の勅願で欽明天皇25年(564年)9月28日の夜、末次村の正直者丹次郎と言う農夫が薪取作業中、突然大地が震動して、(中略)
明治4年(1871年)12月郷社に列せられる。祭神は豊玉姫命であり、仁徳天皇、日本武尊、天照皇大神、日子神、伊奘諾那岐神、龍王神、猿田彦神の七柱の神は、無格社合祀により追加をなした。また、明治40年(1907年)近郊の雑社二十八社を集め合祀し、多くの石造物が本殿裏に移されている。
與賀郷の産土神社として、末次その他は與賀神社より分離し(明治4年(1871年))本庄神社となり、毎年11月28日をもって祭日と定め(現在は10月)氏子区順番にて浮立、相撲、手踊等で賑わいをなしていた。
祭神は「豊玉姫命」であり、七柱が無社格合祀により追加されたことは『佐賀県神社誌要』の記述内容と同じですね。
明治40年(1907年)に近くの雑社二十八社を集めて合祀し、多くの石造物が本殿の裏に移されたそうです。本庄神社のリーフレット『本庄神社略記』には十四柱の神名がありましたが、「略記」だし1枚紙のリーフレットなので、全部の神様が記載されていたわけではない、ということでしょう。
「與賀郷の産土神社として、末次その他は與賀神社より分離し(明治4年(1871年))本庄神社となり」とありますが、これってどういう意味なのでしょうか。
上記『佐賀県神社誌要』本庄神社ページには「代々の国司藩主の崇敬篤く、郷中の産土神と仰ぎ祭祀も怠らず」とあったので「與賀郷の産土神社として」という意味はわかります。本庄神社は産土神社として崇拝されていた、ということなのでしょう。
しかし、この表記と「末次その他は與賀神社より分離し」がどう繋がるのかがよくわかりません。
明治4年に與賀神社から分離して本庄神社となった、という意味でしょうか。
ということは、本庄神社は與賀神社の中の1つの神社だった、ということですか?
うん?どういうこと???
明治4年12月に本庄神社は郷社となっていますが、與賀神社から分離して「本庄神社」という神社名になったのが先なのか、同時なのか、詳しいことはわかりません。
本庄神社は江戸時代初期には「淀姫大明神」と呼ばれていました。
神社名が「淀姫大明神」なのですから、主祭神は「淀姫(與止日女命)」です。
ところが少なくとも大正15年には、本庄神社の主祭神は「豊玉姫命」だと言われています。
本庄神社の神社名はいったいどのように変化していったのでしょうか。
ということで、本庄神社鳥居の神額も含めて、管理人がネット上で確認することができた史料の中から本庄神社の神社名をまとめてみたいと思います。
ネット上に記述がない史料については、図書館へ行ったりするのは面倒だしそんなつもりもありませんので無視します。あくまでもネットで見ることができる史料を元に本庄神社の神社名をまとめてみます。
●慶長08年(1603年) 肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神【本庄神社二の鳥居】
●慶長11年(1606年) 淀姫大明神【本庄神社一の鳥居】
●寛文05年(1665年) 本庄妙見山淀姫大明神【『肥前古跡縁起』本庄大明神条】
●天保12年(1841年) 佐嘉郡〔與賀上郷十村ノ内〕本荘妙見山淀姫大明神
【『太宰管内志』本荘大明神条にて引用している『肥陽古跡記』の記述より】
●天保12年(1841年) 佐賀郡與賀郷淀姫大明神本荘ノ神
【『太宰管内志』與賀大明神条にて引用している『肥陽古跡記』の記述より】
●江戸時代 本庄宮【『武雄鍋島家資料(絵図)閲覧システム』O-25 與賀上郷絵図】
●明治04年(1871年) 與賀神社より分離し本庄神社となる【『さがの歴史・文化お宝帳』本庄神社】
●大正15年(1926年) 本庄神社の主祭神は豊玉姫命【『佐賀県神社誌要』】
本庄神社が「本荘淀姫大明神」や「本荘妙見山淀姫大明神」のように「淀姫大明神」と呼ばれていたことが確認できるのは1600年代に入ってからです。それ以前は何という神社名だったのか、ネット上の記述ではわかりませんでした。
『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』の「本庄の地名の起源」ページでは、建長2年(1250年)以降に「与賀荘」が「与賀新荘」と「与賀本荘」に分けられるようになり、正応5年(1292年)の史料には「与賀本荘120丁、与賀新荘600丁」という記述があるそうです。この「与賀本荘」から「本荘(本庄)」という地名が出来たと考えられるそうなので、本庄神社が「本荘淀姫大明神」や「本荘妙見山淀姫大明神」のように「本庄」と付けられたのは1300年以降だと思われます。
つまり、本庄神社は1300年代から1600年頃までに「本庄淀姫大明神」と呼ばれるようになり、史料上、祭神が「淀姫大明神」だと公言されているのは天保12年(1841年)頃までだということになります。(あくまでも管理人がネット上で確認できた史料を元にしています)
ちなみに、正式な作成年は不明ですが、江戸時代に成立した「與賀上郷絵図」(『武雄鍋島家資料(絵図)閲覧システム』「O-25 與賀上郷絵図」)では、現在の本庄神社は「本庄宮」と記載されていました。「淀姫大明神」という表記はありません。絵図なので省略されているのでしょうね。
いずれにしても、江戸時代は住民からは「本庄宮」と呼ばれて親しまれていたのだと思われます。
本庄神社は明治4年(1871年)に「本庄神社」という神社名になったと言われています。これは上記のように、江戸時代に「本庄宮」と呼ばれていたことからその名が付いたのだと思われます。
以降、本庄神社の正式名称は「郷社 本庄神社」です。
本庄神社の祭神について考えるにあたり、本庄神社が公式に発表していたリーフレット『本庄神社略記』の記載内容が本庄神社の公式見解であり正史であると考えるべきだと思います。
本庄神社が表に出している御由緒、御祭神なんですから間違っているはずがありません。
つまり、現在の本庄神社の主祭神は「豊玉姫命」です。
しかし、本庄神社についてネットで検索をすると、必ず「與止日女命」の名前が出てきます。
それなのに『本庄神社略記』には「與止日女命」の表記がありません。
これはいったいどういうことなのか。
上記で色々と史料を見てきましたが、江戸時代初期の時点で本庄神社は「淀姫大明神」と呼ばれていました。他の史料にも「本庄妙見山淀姫大明神」の記述があるので、江戸時代の本庄神社の祭神は「淀姫大明神(與止日女命)」だったと断言できると思います。
ところが、大正15年(1926年)当時は本庄神社の主祭神は「豊玉姫命」だと認識されています。
「淀姫大明神」がいつの時代に「豊玉姫命」になったのか、ハッキリしたことはわかりません。もしかすると、神社名が本庄神社となった時点(明治4年)で正式に祭神名も「豊玉姫命」となったのかもしれません。
天保12年の時点では祭神は「淀姫大明神」だと考えられていたわけですから、それ以降に「淀姫大明神(與止日女命)」イコール「豊玉姫命」だと明確に理解され、そのように祭神名が変化したのだと思われます。與賀神社パンフレットの記述からも、この地域では「與止日女命=豊玉姫命」だと考えられていたと思われますからね。
その結果、現在の本庄神社のリーフレット『本庄神社略記』では主祭神が「豊玉姫命」となり「淀姫大明神」は記載されていない、ということになったのでしょう。
本庄神社の祭神は「豊玉姫命」です。あくまでも表に出ているのは「豊玉姫命」なのです。
それなのに、與賀神社のパンフレットでは「本庄神社(旧郷社)・与止日女神社(肥前一の宮、旧県社)・与賀神社は共に御祭神は与止日女神で、いづれも欽明天皇二十五年の御鎮座と伝えています。」と記載されている不思議。
これってどういうことなのでしょうかね。
なぜ、本庄神社は「與止日女命」の名前を表には出さず、與賀神社が堂々と表に出しているのか。
いったい本庄神社と與賀神社はどういう関係があるのか。
疑問に思ったので、ちょっと調べてみました。
上記項目【1-5】でも少し紹介しましたが、『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』というサイトの「本庄神社」のページに、本庄神社の由緒についての記述があります。
「本庄神社」でネット検索をするとこのサイトが上位に表示されますし、ぶっちゃけ、他に本庄神社の創建由来について詳しく記載されているサイトはほとんどありません。
このサイトの記述内容が、現在の通説的な本庄神社の創建由来だと考えて良いのだと思われます。
上記項目【1-5】で紹介した際は「中略」という形で略していた箇所を、改めて引用します。
祭神関係部分は上記で紹介したので、今回は「後略」という形で略しておきます。
【本庄神社】(「さがの歴史・文化お宝帳」より引用)
本庄妙見山淀姫大明神の本地は十一面観世音で第29代欽明天皇の勅願で欽明天皇25年(564年)9月28日の夜、末次村の正直者丹次郎と言う農夫が薪取作業中、突然大地が震動して、2本の霊木が生じて、五色の雲、金色の光がさして何処からともなく妙なる音楽が聞こえて、雲の中より気高い垂髫(スイチョウ)の一人の童子が出現して「我は是淀姫の神霊也」と申されて、色々不可思議な霊験を示された。
領主の小寺左衛門大夫安利は丹次郎より霊験奇談を聞き、この丹次郎を連れ、上洛して欽明天皇に奏聞した。天皇は叡感ななめならず(天皇が感嘆すること)畏くも綸旨を下し賜い、なお霊場を建立された。その後小寺は神託に乗じ自ら神主となり、女房を命婦(官位ある女房)とし、同じく座主場を慶正寺と号し、毎年9月27日より28日まで神事祭礼を掌ることとなった、とある。
その後永正9年(1512年)2月に鍋島清久(直茂公の祖父)が再興し、天文2年(1533年)にその子清房が建立した。その後慶長17年(1612年)8月直茂が神殿を新たに造営した。承応2年(1653年)に至り、光茂(2代藩主)が更に造営した。
明治4年(1871年)12月郷社に列せられる。(後略)
最初に「本庄妙見山淀姫大明神の本地は十一面観世音で第29代欽明天皇の勅願で」と記載されていますので、本庄神社の名前は「本庄妙見山淀姫大明神」だった、ということです。
「本地は十一面観世音」というのは本地垂迹説が関係しています。ざっくり言うと、神の正体とされる仏(本地)が十一面観世音菩薩だ、という意味です。
つまり、本地が十一面観世音菩薩である本庄妙見山淀姫大明神は、欽明天皇の勅願により建立された勅願社(時の天皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願する神社)だということです。
では、本庄神社の創建由来をざっくりと箇条書きにしてみます。
●欽明天皇25年(564年)9月28日の夜、末次村の正直者丹次郎という農夫が不思議な体験をする
●いきなり雲の中からおさげ髪の童子が出てきて「私は淀姫の神霊です」と言って霊験を示された
●丹次郎は領主の小寺左衛門大夫に伝え、小寺は丹次郎と一緒に上洛
●欽明天皇に「スッゲーことが起こりました」と伝えると、欽明天皇は「マジか!」と感嘆し、綸旨(命令文書)を出して霊場を建立
●その後、小寺は自ら神主となり、女房を命婦とし、座主場を慶正寺と号して毎年9月27日より28日まで神事祭礼を掌ることになった
本庄神社創建のきっかけは、欽明天皇25年(564年)9月28日の夜に末次村の丹次郎という農夫が不思議な体験をしたことです。末次村とは、現在の本庄神社の位置よりも南側にある本庄町末次あたりを指すのだと思われます。
丹次郎は「我は是淀姫の神霊也」と言うおさげ髪の童子と遭遇します。「私は淀姫の神霊である」つまりここで「與止日女命」が登場したわけです。
淀姫の神霊が現れたことを時の天皇である欽明天皇に奏聞し、神社が創建されます。これが本庄神社であり、本庄神社の祭神は「淀姫(與止日女命)」ということになりますね。
領主小寺左衛門大夫は自ら神主となり、座主場を慶正寺と号して神事祭礼を掌ります。
以上が本庄神社創建の通説です。
では、管理人がネットで見つけた史料を見ていきたいと思います。
『肥前古跡縁起』は大木惣右衛門が寛文5年(1665年)11月にまとめたと言われています。
残念ながら「国立国会図書館デジタルコレクション」には『肥前古跡縁起』のデータは無く、調べたいならば図書館で『肥前古跡縁起』が収められている『肥前叢書』を手に取らないといけないようです。
でも、ネットで色々と検索していたら『肥前古跡縁起』本庄大明神条を記載されているサイト様を見つけました。既に書き下し文になった状態で記載されていて原文は管理人にはわかりませんが、記述内容がわかる唯一の史料です。そのまま引用させていただきます。
引用元はサイト「本地垂迹資料便覧」様の「本庄神社」ページです。
【本庄神社】(「本地垂迹資料便覧」より引用)
「肥前古跡縁起」本庄大明神
本庄妙見山淀姫大明神は本地十一面観世音菩薩欽明天皇の勅願也、右を窺に、知僧元年甲申九月二十八日の夜、大塚妙見の社にして来現垂跡し玉ふ神霊也、其比与賀の庄、末次村と云所に正直なる丹次郎と云へる無比の農夫侍り、九月二十八日の暮方、大塚の松原に出で、薪にとて松の葉を掻集ける折節、大地いちじるしく震動し、忽ちに二本の名木生山其上に五色の雲靉ひき金色の光照当、雪降下り風烈し時に、一人の童子忽然と現れ丹次郎に向て曰、我是淀姫の神霊也、汝か無比の真を感し今爰に垂跡の宿縁尤も深し宜しく崇め奉るべしとの玉ふて、様々神変を現し打失ぬ、丹次郎不思議の瑞相を拝み、領主小寺左衛門安利に云ふ、左衛門此瑞相を深く感じて、頓て彼丹次郎を召具し上洛参内して始終の霊験ども一々に奏聞す、皇帝御叡感不浅即勅願御建立之綸旨を被下る、左衛門悦び下りし後頓て数の社堂を造立し玉ふ
●本庄妙見山淀姫大明神の本地は十一面観世音菩薩である
●本庄妙見山淀姫大明神は欽明天皇の勅願社である
●(祭神は)知僧元年甲申九月二十八日の夜、大塚妙見の社に現れた神霊である
●この頃与賀庄の末次村に正直者の丹次郎という農夫がいた
●9月28日の夕方、大塚の松原で不思議な体験をした
●一人の童子が現れて丹次郎に向かって「我は淀姫の神霊なり」「崇め奉るべし」と言って、色んな霊験を示して消えた
●丹次郎は領主の小寺左衛門安利に伝え、小寺は丹次郎と一緒に上洛、参内して天皇に奏聞した
●天皇(皇帝)は感嘆し勅願社として建立するように綸旨(命令文書)を出した
●小寺は喜び、やがていくつかの社殿を造立した
まず、「本庄妙見山淀姫大明神の本地は十一面観世音菩薩である」とあるので、『肥前古跡縁起』が成立した寛文5年(1665年)当時、本庄神社は「本庄妙見山淀姫大明神」と呼ばれていたことがわかります。
この他の記述は、上記項目【2-1】で紹介した本庄神社創建由来の通説「さがの歴史・文化お宝帳」の記述とほとんど同じです。ということは、「さがの歴史・文化お宝帳」の元となった文章(「かたりべの里」本荘西分、本荘の歴史)は、この『肥前古跡縁起』が元になっているのかもしれません。
『肥前古跡縁起』本庄大明神条で注目したいのは、本庄神社の創建のきっかけとなった出来事が起こった日付「知僧元年甲申九月二十八日」です。正史に存在しないこの「知僧元年」が日本史上の何年に相当するのか、本庄神社の創建年を考える上でとても大事な日付です。(「知僧」については後述しています)
『肥前古跡縁起』によると、「大塚妙見の社」に神霊が現れました。それは、知僧元年9月28日の出来事でした。
与賀庄の末次村の丹次郎が、大塚の松原で「我は淀姫の神霊なり」「崇め奉るべし」と言う一人の童子に遭遇します。「我は淀姫の神霊なり」と童子が言っているので、祭神は「淀姫」です。
つまり、本庄神社には知僧元年甲申9月28日夜に淀姫の神霊が鎮座された、ということです。
丹次郎は領主の小寺左衛門安利に伝え、天皇に奏聞し、天皇の勅願により本庄神社が建立されました。
『肥前古跡縁起』には、與賀神社に関する記述も存在しています。
上記項目【1-2】で與賀神社のパンフレットを紹介した時に、與賀神社には「与賀淀姫大明神、本庄の神と一体分身なり」「本庄・淀姫・与賀三身同一体なり」という言い伝えがあることを説明しましたが、この言い伝えの元となったであろう記述が『肥前古跡縁起』与賀大明神条にあります。
『肥前古跡縁起』は大木惣右衛門が寛文5年(1665年)11月にまとめた書物なので、1665年時点で、本庄神社と與賀神社の祭神は同一神であると考えられていたことがわかりますね。
では、『肥前古跡縁起』与賀大明神条を引用したいと思います。
引用元はサイト「本地垂迹資料便覧」様の「与賀神社」ページです。
【与賀神社】(「本地垂迹資料便覧」より引用)
「肥前古跡縁起」与賀大明神
与賀淀姫大明神本庄淀姫一躰分身本地十一面観世音、欽明天皇勅願として知僧三年乙酉九月二十九日与賀の庄に御鎮座遊ばし侍る也、末次丹次郎と云者、大塚妙見の松原に於て、有難き瑞相を拝み、領主小寺左衛門太夫に告しにより、彼丹次郎を食具し、皇帝に奏聞す、皇帝叡感不浅勅願造立の宣旨を被下敷の社堂を建立ありしに、中にも五社の霊場を建立し玉ふ、本社与賀淀姫大明神を始め八幡宮住吉乙宮、印鑰大明神是也
●与賀淀姫大明神と本庄淀姫は一体分身である
●本地は十一面観世音菩薩である
●欽明天皇勅願社として知僧三年乙酉九月二十九日に与賀庄に御鎮座された
●末次の丹次郎が大塚妙見の松原で不思議な体験をした
●領主小寺左衛門太夫に告げ、一緒に皇帝に奏聞した
●皇帝は感嘆されて勅願社造立の宣旨を下されたので社殿を建立した
●五社の霊場を建立した。「本社与賀淀姫大明神を始め八幡宮住吉乙宮、印鑰大明神是也」
管理人は『肥前古跡縁起』を実際に見たわけではありません。引用元のサイト様ではすでに書き下し文になっていました。原文は図書館などに行かないと確認できないので何とも言えませんが、管理人は引用元のサイト様の書き下し文を信用したいと思います。(下記で説明しますが、ちょっと疑問に思われる漢字表記があるのでこのような書き方をしました。サイト主様が万が一にもこの駄文を読まれてご気分を害される場合もあるでしょうから先に謝罪しておきます。申し訳ありません。)
さて、こちらの文章は與賀神社に関する文章です。
與賀神社の創建に関する説明の中で、一番最初に「与賀淀姫大明神と本庄淀姫は一体分身である」と記述されています。「一体分身」とは「一体の神仏が、衆生救済のためさまざまな姿をかりて現れること。また、その神仏。」(コトバンク「一体分身」より) ということですから、与賀淀姫大明神と本庄淀姫大明神は同じ神様だということです。なので、本地も本庄神社と同じ十一面観世音菩薩です。
與賀神社の説明文には、本庄神社の説明文にも登場した丹次郎に関する話が記載されています。
丹次郎が登場してからのくだりは本庄神社の創建由来とほぼ同じです。
与賀淀姫大明神と本庄淀姫大明神は同じ神様なので、創建由来も同じだということなのでしょう。
『肥前古跡縁起』本庄大明神条の記述と明確に異なる箇所は、創建に関する日付です。
与賀大明神は「欽明天皇勅願として知僧三年乙酉九月二十九日与賀の庄に御鎮座遊ばし侍る也」とあるので、欽明天皇の勅願社として「知僧三年乙酉九月二十九日」に與賀神社がある与賀庄に御鎮座されたことになります。(年号「知僧」については後述しています)
つまり、與賀神社の創建年(社殿が建立された年)は「知僧三年乙酉九月二十九日」ということです。
同じ書物『肥前古跡縁起』本庄大明神条で、本庄神社には「知僧元年甲申九月二十八日夜」に淀姫の神霊が鎮座されたことが記述されているので、與賀神社は本庄神社よりも後に創られた神社ということになります。しかも日付がハッキリと書いてあるため、與賀神社は本庄神社創建の2年後に創られたわけです。(あくまでも「知僧元年」と「知僧三年」という表記から2年と計算しています。日付表記の考え方により1年後の可能性もあります)
「同じ神様を2年後(又は1年後)に別の場所に創建する」ということは、神社が勧請されたことを意味するのではないでしょうか。最初に本庄神社が創建され、同じ神様を現在の與賀神社の場所に勧請して遷したということです。
でも、例えば現在の與賀神社パンフレットや公式ホームページには、このような内容の記述はありません。「共に御祭神は与止日女神で、いづれも欽明天皇二十五年の御鎮座と伝えています」などと書いてあるだけですから、まるで本庄神社と與賀神社が同時に創建されたかのようです。
穿った見方をすれば、與賀神社は本庄神社から勧請されたことを隠しているとも言えますね。
なぜこういう状況になってしまったのでしょうか。
また、『肥前古跡縁起』与賀大明神条では五社の霊場を建立したという記述がありますが、その五社とは「本社与賀淀姫大明神を始め八幡宮住吉乙宮、印鑰大明神」とのことです。
五社つまり「本社(である)与賀淀姫大明神」「八幡宮」「住吉」「乙宮」「印鑰大明神」が同時に建立された、ということですね。
管理人は元文5年(1740年)の『佐賀城廻之絵図』復刻版(鍋島徴古館)を持っているんですが、この絵図で確認してみたところ、「与賀社(現在の與賀神社)」の周りに「八幡命婦」「乙宮命婦」「与賀印鑰」を確認することができました。「与賀印鑰」の近くには「本庄印鑰」もあります。一部でも転載禁止となっているので画像は掲載しません。興味がある方は徴古館に行けば購入できますのでどうぞ。
また、與賀神社パンフレットによると、現在の與賀神社の祭神は、「與止日女神」「八幡神」「住吉神」「乙宮神」「印鑰神」「応神天皇」「菅原道真公」です。
この『肥前古跡縁起』に挙げられている5つの神社すべてが現在の與賀神社の祭神となっておられますから、與賀神社創建の際に建立されたという五社の霊場は、與賀神社に同時に祀られたと考えられます。
江戸時代の国学者伊藤常足が天保12年(1841年)に著した『太宰管内志』(九州全域の詳細な地誌)を確認してみたところ、本庄神社の記述がありました。
『太宰管内志』の記述では『肥陽古跡記』という書物を引用していますが、この『肥陽古跡記』がちょっとよくわかりません。どこかのサイトでは「肥陽古跡記(1665年)」とあったので、もしかしたら上記項目【2-2、2-3】で紹介した、大木惣右衛門が寛文5年(1665年)11月にまとめたという『肥前古跡縁起』を指すのかもしれません。
画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」より引用しています。明治41年発行の『太宰管内志下巻』の文章です。
○本荘大明神
[肥陽古跡記]に佐嘉郡〔與賀上郷十村ノ内〕本荘妙見山淀姫大明神〔本地十一面観世音菩薩也〕云云「知僧元〔甲申〕年九月廿八日夜於大塚妙見社来現垂跡給之神霊也其頃」與賀荘末次村農夫九月廿八日暮方出大塚松原松葉を搔集ける折節大地震動而惣二本ノ名木出生ス其上に五色ノ雲たなびきて金色ノ光あたりを照し雪降風烈時一人ノ童子忽然と現て云吾ハ是與止日□神霊也云云 様々神変を現して失ぬ丹次郎不思議の瑞相を拝し領主小寺左衛門太夫安利に告ぐ安利数多ノ堂社を造立し自神主と成て女房を姉と定む又座主ノ坊を居て慶正寺と号す御垂跡ノ日を守り毎年九月廿七日ノ夜より同廿八日まで神事祭礼の作法ありかく尊き霊場なれば代々修造を加ふ中にも永正九年壬申二月初より鍋島平右衛門殿御再興あり又天文二年三月廿四日より鍋島駿河守清房御建立あり又慶長十七年八月初より鍋島加賀守直茂公御修造あり又承応元年三月朔日より寛文三年八月に至て丹州光茂公御造営あり諸御宝物に往古の縁起一巻あり
『太宰管内志』(1841年)が引用している『肥陽古跡記』(1665年『肥前古跡縁起』と同じもの?)の記述によると、本地が十一面観世音菩薩である「本荘妙見山淀姫大明神」が佐賀郡與賀上郷十村の中にあったそうです。
「本荘」は「本庄」のことですから、本庄神社は以前は「本庄妙見山淀姫大明神」と呼ばれていた、ということです。上記『肥前古跡縁起』の記述と同じです。
『太宰管内志』は鍵括弧を付けて「知僧元〔甲申〕年九月廿八日夜於大塚妙見社来現垂跡給之神霊也其頃」と記述しており、ここに著者の伊藤常足は「ケヅルベキカ」と記述しています。削るべきか、つまり「削除した方がいいのか」と疑問を持ったということです。
おそらく「知僧元〔甲申〕年」が存在しないことから常足はこのように記述したのではないかと思われますが、いずれにしても「知僧」については後述しますので、ここではスルーしておきます。
『太宰管内志』本荘大明神条でも、一人の童子が現れて「吾ハ是與止日□神霊也」と告げています。(「□」部分はカタカナの「ノ」か「ン」が入っているように見えますが、ちょうど汚れが重なっている部分なのでよくわかりませんでした)
つまり、『太宰管内志』がまとめられた天保12年(1841年)当時も、本庄神社の創建由来では「淀姫(與止日女)の神霊」が登場して、末次村の農夫に色々と不思議な情景を見せたと思われていたわけです。
『肥前古跡縁起』では小寺左衛門安利がいくつかの社殿を建立したところまでしか記述されていませんが、『太宰管内志』には続きがありますので、箇条書きにしておきます。
●小寺左衛門安利は数多くの堂社を造立し、自ら神主となって女房を姉と定めた
●また、座主の坊を造立して「慶正寺」と号した
●慶正寺は神霊が現れたという御由緒を守り、毎年9月27日夜より28日まで神事祭礼の作法があった
●このように尊き霊場なので、代々修造をしてきた
●永正九年壬申二月初めより鍋島平右衛門殿の御再興あり
●天文二年三月廿四日より鍋島駿河守清房御建立あり
●慶長十七年八月初めより鍋島加賀守直茂公の御修造あり
●承応元年三月朔日より寛文三年八月に至て丹州光茂公の御造営あり
●諸御宝物に往古の縁起一巻あり
『太宰管内志』(1841年)には「本荘大明神」の説明の次に「與賀大明神」の説明が記載されています。
原文は上記項目【2-4】で掲載している『太宰管内志』本荘大明神条の画像でご確認ください。
ちなみに、『太宰管内志』が引用している『肥陽古跡記』という書物が何を指すのかは不明であり、もしかすると大木惣右衛門が寛文5年(1665年)11月にまとめたという『肥前古跡縁起』のことなのかもしれない、というのは前述【2-4】の通りです。
伊藤常足著『太宰管内志』より引用
○與賀大明神
[肥陽古跡記]に佐賀郡與賀郷淀姫大明神本荘ノ神と一体分身なり〔本地十一面観音幷〕「欽明天皇」云云 造立ノ宣旨ヲ被下堂社建立有之中にも五社ノ霊場を造立シ給ふ本荘與賀淀姫大明神を始め八幡宮・住吉乙宮・印鑰大明神是也(後略)
●與賀大明神は、佐賀郡與賀郷淀姫大明神本荘ノ神と一体分身である
●本地は十一面観世音菩薩である
●欽明天皇云々の話がある
●造立の宣旨があって、社殿を建立した
●五社ノ霊場を造立した。その五社とは「本荘與賀淀姫大明神を始め八幡宮・住吉乙宮・印鑰大明神是也」
さて、管理人は項目【2-3. 肥前古跡縁起の與賀神社】で、「管理人は引用元のサイト様の書き下し文を信用したいと思います」と記述し、「ちょっと疑問に思われる漢字表記がある」と説明していました。
疑問に思われる漢字表記が、この『太宰管内志』與賀大明神条です。
『太宰管内志』與賀大明神条(1841年)は『肥前古跡縁起』与賀大明神条(1665年)の記述内容とほとんど同じですが、明確に異なる箇所があります。それは、欽明天皇の宣旨(命令)があって造立されたという五社の霊場の話です。
『肥前古跡縁起』与賀大明神条(1665年)
●五社の霊場を建立し玉ふ、本社与賀淀姫大明神を始め八幡宮住吉乙宮、印鑰大明神是也
『太宰管内志』與賀大明神条(1841年)
●五社ノ霊場を造立シ給ふ本荘與賀淀姫大明神を始め八幡宮・住吉乙宮・印鑰大明神是也
「本社」と「本荘」、完全に違いますね。
「社」か「荘」かで記述内容に大きな差が出てくるんですよね。
『肥前古跡縁起』与賀大明神条(1665年)の記述では「本社(である)与賀淀姫大明神」「八幡宮」「住吉」「乙宮」「印鑰大明神」が同時に建立されたことになります。
「本社である与賀淀姫大明神」とは與賀神社のことであり、他の「八幡宮」「住吉」「乙宮」「印鑰大明神」は現在、與賀神社の祭神として祀られています。
つまり『肥前古跡縁起』与賀大明神条では與賀神社に関係する霊場が同時に建立されたと言っており、ここに本庄神社は無関係です。
また、『肥前古跡縁起』与賀大明神条には「知僧三年乙酉九月二十九日与賀の庄に御鎮座遊ばし侍る也」という記述があったので、五社の霊場を建立したその中に、同じ『肥前古跡縁起』本庄大明神条で「知僧元年甲申」に創建されたと言っている本庄神社が含まれていないのは当然だと思われます。
ところが、『太宰管内志』與賀大明神条(1841年)の記述では「本荘與賀淀姫大明神を始め八幡宮・住吉乙宮・印鑰大明神是也」とあるため、素直に読むと、「本荘淀姫大明神」「與賀淀姫大明神」「八幡宮」「住吉乙宮」「印鑰大明神」の五社が同時に建立されたことになります。「本荘淀姫大明神」つまり本庄神社も與賀神社と同時に建立されたと言っているわけです。
「住吉乙宮」に関しては、『肥前古跡縁起』与賀大明神条の霊場を数える時に管理人は「住吉」と「乙宮」に分けて一社ずつと数えましたが、『太宰管内志』與賀大明神条では分けることはできません。
管理人が確認したのは明治41年(1908年)発行の『太宰管内志下巻』ですが、ハッキリと「八幡宮・住吉乙宮・印鑰大明神是也」と中点「・」で区切りが入っています。これは、少なくとも明治41年当時は「住吉乙宮」と考えられていたということでしょうし、そのように考える根拠つまり『太宰管内志』の原本なり写本があったのだと考えられます。まあ、正確なところはよくわからないのですが、「住吉乙宮」で区切られているのですから、これは1つの社と考えなければならないでしょう。
そうなると、五社の霊場として数えるならば、どうしても「本荘與賀淀姫大明神」を2つに分けなければならなくなるので、「本荘淀姫大明神」と「與賀淀姫大明神」と読むことになるわけです。結果、本庄神社と與賀神社が同時に建立されたと記述されている、という判断になります。
ということで、『太宰管内志』與賀大明神条は「本庄神社と與賀神社は同時に造立された」と言っています。だからこそ、著者の伊藤常足は、鍵括弧の部分「欽明天皇」について「ケヅルベキカ」と記述しているのだと思います。欽明天皇云々の話を「削除するべきだろうか」と書いているわけです。
『太宰管内志』が引用している『肥陽古跡記』が本当に『肥前古跡縁起』のことだとしたら、伊藤常足が削除した方がいいかもしれないと思っている箇所は「欽明天皇勅願として知僧三年乙酉九月二十九日与賀の庄に御鎮座遊ばし侍る也」という記述部分です。
ここには明確に「知僧三年乙酉九月二十九日」に与賀の庄に祭神與止日女命が鎮座されたことが記されているので、本庄神社と與賀神社が同時に建立されたという『太宰管内志』の記述内容と矛盾してしまうことになります。
伊藤常足が與賀神社創建由来について調べていた当時は、本庄神社と與賀神社は同時に建立されたと思われていたのでしょう。矛盾してしまう由来は問題視されたのではないでしょうか。そのため常足は、『太宰管内志』與賀大明神条で「知僧三年」の部分を「ケヅルベキカ」と表記し、さらに本荘大明神条でも「知僧元年」の部分に「ケヅルベキカ」と書いたのでしょうね。
以上、「本社」と「本荘」という漢字表記の違いにより、本庄神社と與賀神社の創建年についての考えが時代によって異なっていたことがわかるのではないか、と管理人は考えます。
大木惣右衛門が寛文5年(1665年)11月に『肥前古跡縁起』を著した当時は、本庄神社が先に創建されて、その2年後(又は1年後)に與賀神社が創建(勧請)されたと考えられていたと思われます。
伊藤常足が天保12年(1841年)に『太宰管内志』を著した当時は、本庄神社と與賀神社は同時に創建されたと考えられるようになっていた、と言えるのではないでしょうか。
上記項目【1-4】では、大正15年(1926年)に出版された『佐賀県神社誌要』の「郷社本庄神社」ページを紹介しました。「欽明天皇二十五年の勧請にして、代々の国司藩主の崇敬篤く、郷中の産土神と仰ぎ祭祀も怠らず、明治四年十二月郷社に列せらる。」とあり、大正15年当時、本庄神社の創建は欽明天皇25年だと考えられていたことがわかります。
『佐賀県神社誌要』には「県社與賀神社」ページもありました。
與賀神社の説明文には本庄神社が登場するので、該当部分を紹介したいと思います。
画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」より引用しています。
県社 與賀神社
佐賀市與賀町
祭神
彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)
瀛津島姫命(おきつしまひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
綿津見命(わたつみのみこと)
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
応神天皇 菅原道真
人皇第三十代欽明天皇の御宇、二十五年佐嘉郡小津西郷に一社を建立して塚原大明神と称せり。(是則ち現在の市外本庄村郷社本庄神社なり)而して翌年蘆荻(ろてき。植物のアシとオギのこと)繁茂したる此地を相して社殿を建設し芦原大明神と称し、九月二十九日遷宮の式典を挙げ、当時の探題小寺左衛門大輔其由来と状況を闕下(けっか。天子の御前)に奏聞したるに、叡感斜ならず、深く之れを嘉賞せられ、與止日女大明神と称し、勅願所とすべき旨宣下せらる。爾来朝廷の御崇敬はもとより、武家の代に至りてもますます厚く、順徳天皇の御宇建暦二年社殿の大造営あり、時の造営奉行は北条義時なりしといふ。現在の丹朱塗楼門(特別保護建造物)は約七百年前の建築様式との鑑定なれば、盖此時の造営なるべし。(後略)
『佐賀県神社誌要』與賀神社ページの與賀神社創建に関する記述をざっくりとまとめてみます。
●欽明天皇25年 佐賀郡小津西郷に「塚原大明神」が創建された
●塚原大明神は現在の本庄神社のことである
●翌年(欽明天皇26年) 蘆荻が茂っているこの土地(現在の與賀神社の地)を良い土地だと判断
●欽明天皇26年 社殿を建立して「芦原大明神」と称する
●欽明天皇26年9月29日 「塚原大明神」から「芦原大明神」へ遷宮式典あり
●欽明天皇は小寺左衛門大輔から由来と状況を聞いて感嘆し、「與止日女大明神」と称して勅願所とするように命じた
欽明天皇25年に佐賀郡小津西郷に「塚原大明神」が創建されたけれども、もっと良い土地へ神社を遷す計画があり、現在の與賀神社の場所が良い感じなのでそちらに社殿を建立しました。「蘆荻」がいっぱい生えている土地、つまり「蘆」=「芦」なので「芦原大明神」という神社名です。「翌年」とあるので、欽明天皇26年9月29日に遷宮式典を挙げています。その後、小寺左衛門大輔が由来と状況を欽明天皇に伝えて「與止日女大明神」という神社名になります。
「遷宮の式典」というのは、いわゆる「勧請した」ということだと思われます。
神様は勧請されても、元々の場所(神社)にそのままいらっしゃいます。元の神社から完全に移動されるわけではありません。ということは、欽明天皇26年9月29日に芦原大明神で遷宮式典を行った時、御祭神は塚原大明神にもいらっしゃるわけです。この塚原大明神が現在の本庄神社のことだと『佐賀県神社誌要』では言っています。
さて、この『佐賀県神社誌要』與賀神社ページの記述で注目してもらいたいのは、「九月二十九日遷宮の式典を挙げ」という部分の日付です。「9月29日」という日付、何か思い出しませんか?
そうですね。上記項目【2-3】で説明していた『肥前古跡縁起』与賀大明神条(1665年)の「欽明天皇勅願として知僧三年乙酉九月二十九日与賀の庄に御鎮座遊ばし侍る也」という記述を思い出しますよね。
『肥前古跡縁起』では「知僧三年乙酉九月二十九日」に、祭神である與止日女命が与賀の庄に鎮座されたと伝えていました。
『佐賀県神社誌要』は欽明天皇26年9月29日に「塚原大明神」つまり現在の本庄神社から「芦原大明神」つまり現在の與賀神社への遷宮式典が挙げられたと言っているのですから、この「欽明天皇26年」が「知僧三年乙酉」と同じ年だということになります。少なくとも大正15年に発行された『佐賀県神社誌要』では「知僧三年乙酉」は「欽明天皇26年」だと判断したので、そのように記述しているのでしょう。まあ、年号や西暦については後で書いてみたいと思っていますのでちょっとここでは置いておいて、いずれにしても、與賀神社が現在の地に創建(勧請)されたのは9月29日だということです。
『佐賀県神社誌要』與賀神社ページの記述は、おそらく『肥前古跡縁起』与賀大明神条の記述内容をベースにした上で、より詳細な内容(塚原大明神や芦原大明神など)を説明しているのだと思われます。
ということで、『佐賀県神社誌要』與賀神社ページの記述内容を確認すると、與賀神社は本庄神社よりも後に創られた神社(本庄神社を勧請して創られた神社)だと説明していることになります。『肥前古跡縁起』与賀大明神条の記述内容と同じだと考えて良いでしょう。
『肥前古跡縁起』(1665年)によると、本庄神社の祭神は知僧元年甲申九月二十八日の夜、大塚妙見の社に現れた神霊であり、與賀神社は欽明天皇勅願社として知僧三年乙酉九月二十九日に与賀庄に御鎮座されました。勅願社造立の宣旨を受けて五社の霊場を建立し、その五社は與賀神社内に祀られました。
『太宰内管志』(1841年)の記述では、五社の霊場を建立したことまでは『肥前古跡縁起』与賀大明神条と同じですが、建立した五社の中に本庄神社と與賀神社が含まれているため、本庄神社と與賀神社は同時に創建されたと考えられていたと思われます。
『佐賀県神社誌要』(1926年)によると、與賀神社は本庄神社(塚原大明神)を芦原大明神へ遷宮したものであり(この遷宮式典は欽明天皇26年9月29日に行われた)、欽明天皇に奏聞して「與止日女大明神」と称し勅願所とするように命じられたとのこと。
本庄神社と與賀神社の創建が、本庄神社が先で後から與賀神社が出来たのか、本庄神社と與賀神社は同時に創建されたのか、ここら辺が気になるところですね。
では、実際の本庄神社と與賀神社の位置関係はどうなっているのでしょうか。
本庄神社創建由来に出てくる「慶正寺」と「大塚妙見社」について考えてみたいと思います。
『太宰管内志』本荘大明神条には、小寺左衛門太夫安利が欽明天皇の許しを得て社殿を建立し、「座主ノ坊を居て慶正寺と号す」という記述があります。同じ記述は「さがの歴史・文化お宝帳」にもあります。
慶正寺は神霊が現れたという御由緒を守り、毎年9月27日夜より28日まで神事祭礼の作法があったと記されており、記述内容からすると、本庄神社と同時期に「慶正寺」が存在していたと考えられます。
ネットで検索してみたら「慶正寺」が存在していました。現在の本庄神社の斜め後ろらへんに「妙見山慶正寺本荘院」があります。
慶正寺の公式ホームページには「寛延年間火災ニ罹り旧記焼失仕、草創原由不詳トイエトモ欽明帝御宇本荘神社御建立、本地十一面観世音御安置ノ由縁ニテ當寺建立相成、明治初年迄連綿座主職奉仕候」と記載されていました。慶正寺の創建記は残念ながら焼失してしまって由来がわからないけれども、欽明天皇の時代に本荘神社(本庄神社)が建立され、本地である十一面観世音を安置しているという由縁で当寺が建立されたという内容です。つまり、現在も存在する慶正寺が、本庄神社創建由来に登場する「慶正寺」である、ということですね。
『太宰管内志』が引用している『肥陽古跡記』の記述によると、本地が十一面観世音菩薩である「本荘妙見山淀姫大明神」が佐賀郡與賀上郷十村の中にあったと記述されていました。実際に現在の慶正寺にも、本地である「十一面観音」がちゃんと存在しており、現在も1月18日に「十一面観音開帳」が行われています。(当時の菩薩像ではないと思われますが)
また、現在の慶正寺の正式名称は「妙見山慶正寺本荘院」です。末次村の丹次郎が大塚妙見の松原にて「淀姫(與止日女)の神霊」に遭い、これをきっかけとして本庄神社創建に繋がるというのが本庄神社創建由来ですが、「大塚妙見の松原」に「妙見」が出てくるので、そこから慶正寺は「妙見山慶正寺本荘院」という号なのかな?と思われます。もしもそうだとしたら、この本庄地域では、本庄神社創建に関する言い伝えが大切に守られてきたということがわかります。
さらに「妙見」に関しては、佐賀市本庄町に「妙見神社(妙見社)」があります。
景行天皇の皇子小碓尊(後の日本武尊)が龍造島(鬼丸の宝琳院付近)に上陸後、『仮殿を小津江の西に造り(寺小路妙見社附近)これを「本所」と称えた。これが今日の「本庄」の名称の始まりであると伝えられる。』と『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』の「王子権現と日本武尊」ページで説明されており、この「寺小路妙見社」というのが、佐賀市本庄町の「妙見神社」です。
位置関係を画像化してみました。
Googleさんの地図に書き込んでみようと思ったらちょっとおかしくなりましたが、まあ、位置関係はわかると思います。
『佐賀県神社誌要』與賀神社ページには「人皇第三十代欽明天皇の御宇、二十五年佐嘉郡小津西郷に一社を建立して塚原大明神と称せり。(是則ち現在の市外本庄村郷社本庄神社なり)」と記述されていました。
佐賀郡「小津」は、現在の佐賀市与賀町付近と推定されているらしく、「小津西郷」ということは、与賀町の西側ということでしょうか。本庄神社あたりですね。(こじつけw)
まあ、上記の通り『仮殿を小津江の西に造り(寺小路妙見社附近)これを「本所」と称えた』と言われているわけですから、妙見神社付近を「小津の西」と言っていた可能性があります。上記地図では明らかに與賀神社だけが離れていて、「本庄神社」「慶正寺」「妙見神社」はひとまとまりになっていますから、「佐嘉郡小津西郷」に建立された塚原大明神は、本庄神社あたりだったと考えられると思います。
丹次郎は「大塚妙見の社」「大塚妙見の松原」で「淀姫(與止日女)の神霊」に遭い、社殿が建立されました。『佐賀県神社誌要』によると建立された神社は「塚原大明神」ですが、どこから「塚原」という名前がきたのでしょうかね。
管理人は、「大塚妙見の松原」から「塚原」が出てきたんじゃないかと思うんですが、どうでしょうか。
社殿が建立されて、その神社名が「淀姫(與止日女)の神霊」が現れた「大塚妙見の松原」から「塚原大明神」と名付けられた。‥‥まあ、そんなに悪い妄想ではないと思うんですけどねぇ(笑)
ということで、「塚原大明神」が現在の本庄神社の元の名前だという『佐賀県神社誌要』の記述は、あながち間違いではないと管理人は思っています。
位置関係を見ても、本庄の地(「本庄神社」「慶正寺」「妙見神社」)と與賀神社の地は少し離れているわけですから、「塚原大明神(本庄神社)」から與賀神社の地「芦原大明神」へ遷宮されたという『佐賀県神社誌要』の記述は納得いくのではないでしょうか。
『肥前古跡縁起』では本庄神社は「知僧元年」に、與賀神社は「知僧三年」に創建されたと記述されていましたから、『佐賀県神社誌要』の記述の通り、與賀神社は「塚原大明神」から「芦原大明神」へ遷宮されて創建(社殿建立)された可能性が高いと思われます。
自分でもなぜこういうことをしてみようと思ったのかよくわかりませんが、「與賀神社」「本庄神社」「備考」の比較表を作ってみました。
ネットで拾う事ができた記述を年代別に並べてみただけなので、史料的には信用性はあまりまりません。でもまあ、なんとなく「こんな感じなのだろう」という比較材料が出来たのではないでしょうかね。
與賀神社に関するもの、本庄神社に関するもの、備考は管理人が気になったことをまとめています。年代別に分けて記載しているため、引用元の史料との関係で記載内容が重複している箇所が多数あります。(例えば『肥陽古跡記』の記述内容と、『肥陽古跡記』を引用している『太宰管内志』の記述内容は同じものになっています)
わかりにくいかもしれませんが、これは管理人の趣味で作った比較表なので、細かいことは気にしないようにお願いいたします。趣味で作成したものに文句を言うような無粋なことはしちゃいけません(笑)
引用元を明記していますので、気になる方はネットで検索してお調べください。
上記比較表で「與賀神社」と「本庄神社」の神社名の推移を確認してみます。
欽明天皇時代の創建由来の記述のように、後世に成立した史料の中で「そうだったと言われている」というような表記は外します。史料が成立した年代と同じ時代は何と呼ばれていた神社だったのか、という観点で神社名を抜き出してみます。
●與賀神社
文明14年(1482年) 与賀社大明神・前名塚原大明神【藤龍家譜】
永正10年(1513年) 肥前国佐賀郡与賀庄 正一位与止日女大明神【永正10年與賀神社神宣】
慶長08年(1603年) 佐賀荘正一位与止日女大明神【與賀神社三の鳥居】
慶長11年(1606年) 肥前州与賀荘 正一位与止日女大明神【與賀神社石橋】
寛文05年(1665年) 与賀淀姫大明神【『肥前古跡縁起』与賀大明神条】
天保12年(1841年) 佐賀郡與賀郷淀姫大明神
【『太宰管内志』與賀大明神条にて引用している『肥陽古跡記』の記述より】
●本庄神社
慶長08年(1603年) 肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神【本庄神社二の鳥居】
慶長11年(1606年) 淀姫大明神【本庄神社一の鳥居】
寛文05年(1665年) 本庄妙見山淀姫大明神【『肥前古跡縁起』本庄大明神条】
天保12年(1841年) 佐嘉郡〔與賀上郷十村ノ内〕本荘妙見山淀姫大明神
【『太宰管内志』本荘大明神条にて引用している『肥陽古跡記』の記述より】
史料が著された時期の神社名が確定しているのはこんな感じでしょうか。
神社創建由来を少し振り返ってみると、大正15年発行『佐賀県神社誌要』與賀神社ページの記述では、欽明天皇25年に最初に建立された神社は本庄神社(塚原大明神)でした。そして翌年(欽明天皇26年)「塚原大明神」を勧請して「芦原大明神」が創建されています。欽明天皇に奏聞して「與止日女大明神と称し、勅願所とすべき旨宣下せら」れたので、「芦原大明神」のことは「與止日女大明神」と称することになったわけです。この時点で與賀神社の祭神は「與止日女命」ということになります。
ちなみに史料には登場していませんが、この時、遷宮前の神社である「塚原大明神」も、祭神は「與止日女命」であったと思われます。そうでないと遷宮後の芦原大明神が與止日女大明神と呼ばれるようなことにはならないからです。本庄神社の御由緒に與止日女の神霊が登場しているのですから、本庄神社の祭神も「與止日女命」ですね。
つまり、欽明天皇26年時点で本庄神社も與賀神社も、祭神は「與止日女命」だったということです。
ところが與賀神社の場合、欽明天皇時代に「與止日女大明神」と称するように宣旨(天皇の命令)があったはずなのに文明14年(1482年)時点では「与賀社大明神」と呼ばれているわけです。
本庄神社・與賀神社の祭神である「與止日女大明神」が史料に残っているのは、永正10年(1513年)の與賀神社の神宣、「肥前国佐賀郡与賀庄 正一位与止日女大明神」が最初です。
1600年代に入ると「與止日女大明神」がよく出てきて、本庄と與賀の地名をとって「本荘淀姫大明神」や「与賀淀姫大明神」と呼ばれるようになっています。1603年の鳥居に「本荘淀姫大明神」と記されているのですから、その前つまり1500年代半ばぐらいには、本庄神社は「淀姫大明神」を祀っていると考えらえれていたのだと思います。
また、永正10年の與賀神社の神宣に「与止日女大明神」と記述され、そのわずか30年前は「与賀社大明神」と呼ばれていたというのは、この期間に與賀神社について何かあったと言えるのではないでしょうか。人々の認識が西暦1500年前後に変化したのかもしれません。
與賀神社の祭神名が「与止日女大明神」だと確定されたため、それによって本庄神社も「淀姫大明神」と表立って呼ばれるようになったのではないか?などと管理人は考えてしまうのですが、飛躍しすぎかな。
本庄神社に関しては、1603年に初めて「淀姫」が登場しており、その前は何という神社名だったのか不明です。(もしかしたらきちんとした史料が存在するかもしれませんが、ネット上にある史料では1603年の表記が初見になります)
比較表を眺めてみると、本庄神社に関する記述は、欽明天皇時代の創建の話以降、社殿が再興される永正9年(1512年)まで、すっぽりと内容がありません。動向がさっぱりわからないのです。
でもその間の與賀神社に関する記述は、けっこう活発です。なぜなのでしょうか。
ということで、本庄神社と與賀神社に関する史料を比較してみて、管理人が疑問に思ったことを適当に挙げてみます。(あくまでも疑問に思ったことであって、解決しようとは考えていませんのでw)
●そもそも、本庄神社と與賀神社の創建年はいつなのか。
●丹次郎の話(淀姫の神霊が現れたという話)は本庄神社のものなのか、與賀神社のものなのか。
●與賀神社はなぜ文明14年(1482年)時点で「與止日女大明神」と呼ばれていないのか。
●本庄神社に関する史料がすっぽりと抜けているのはなぜなのか。
●なぜ、永正9年(1512年)にいきなり本庄神社が再興されたのか。
●永正10年(1513年)に與賀神社がいきなり正一位を授けられたのはなぜか。
●本庄神社略記だけが欽明天皇24年創建だと断言している理由は何か。
●與止日女命が最初に現れたのはどこなのか。本庄?與止日女?與賀?
●與賀神社と本庄神社、いったいどういう関係性なの?
上記で疑問点をいくつか挙げてみましたが、管理人はこれらの疑問点について答えを知りたいわけではありません。まずもって、わかるわけがないのです。だって管理人はネット上の史料しか見てませんからね。
おそらくですが、與賀神社や本庄神社の創建については、郷土史家の方や専門家がきちんと論述されていると思われます。それらを調べるのは労力がいるので、管理人はやりません。(オイw)
このサイトはあくまでも管理人の趣味で運営していますから、管理人がやりたいことをやるサイトなわけで、学術的に知りたいのであればどうぞご自分でお調べください。管理人はここまで長文を書くことになるとは思っていなかったので(ここまで書いた時点で3週間かけています)、なんかもう、辛いです(笑)
ということで、以下、管理人が勝手に妄想している本庄神社と與賀神社の関係を書いてみます。
根拠は何もありませんのでこれはただのファンタジーです。
いいですか?根拠は何もありませんからね?
このサイトの文章は、根拠なしで書いている妄想文章なのです!!(しつこいw)
下記で色々と挙げている史料名や内容は上記比較表に掲載しているので、比較表で確認してください。
さて、大正15年(1926年)発行『佐賀県神社誌要』與賀神社ページ【2-6】では、欽明天皇26年に「與止日女大明神と称し、勅願所とすべき旨宣下せらる」と記述されていました。
ところが、與賀神社は鎌倉時代は「与賀御庄鎮守宮」と呼ばれており(與賀神社公式ホームページ)、史料的には「與止日女大明神」とは呼ばれていなかったようです。
「与賀庄鎮守宮」というのは「与賀庄の鎮守さま」という意味だと思われますから、神社の主祭神が「與止日女大明神」であったとしても、この地域(与賀庄)の鎮守宮という位置づけの神社として認識されていたと思われます。
與賀神社の公式ホームページには「室町後期に、太宰府長官であった少弐政資公は山口の大内氏に追われ佐嘉に落ち延びて来て、文明十四年(1482年)に現在の赤松町龍泰寺一帯にあった父教頼の旧館を開き与賀城を築き、当神社を鬼門の鎮守として崇敬し社殿を再興、楼門を造立し神事を修飾した。」との記載があります。與賀神社は1482年に少弐政資公が与賀城を築いた際、「鬼門の鎮守」となって社殿が再興され、楼門が造立されました。「鬼門の鎮守」つまり、与賀城の北東の位置にあったということですから、与賀城は現在の與賀神社の位置の南東側に造られたと思われます。現在の與賀神社の楼門はこの頃に建立されたものだと考えられており、国の重要文化財に指定されています。
ちなみに與賀神社が与賀城の鬼門の鎮守となったという話は、昭和52年発行の『佐賀市史』にも記載されています。佐賀市が公開している文章なので、該当部分を引用したいと思います。
佐賀市史:第一巻(昭和52年7月29日発行)
【中世Ⅱ】三 室町幕府の盛衰と佐賀地方
(二)室町幕府衰世期 4少弐政資と佐賀 p.531
『藤龍家譜』によると、龍造寺家氏は城西の小津東郷のかつ政資(政尚)の父教頼が住んだ地に居館を置いた。これを与賀館又は与賀城と称した。その時期を文明十四年(一四八二)頃とされ、『九州治乱記』は春とするが、同年四月三日佐賀郡河上与止日女社に神崎郡内笠置土師郷等を寄進し武運長久及び帰国安堵等を祈願している。これらをみるとこのころすでに肥前に来ていたと思われる。なお『藤龍家譜』によると、与賀社大明神・前名塚原大明神(与賀町・与賀神社)を鬼門の鎮守としたのである。あたかも政資入城の夜盗賊が侵入したが龍造寺家氏は藤折長門守と共に警衛し抽賞されている。
文明14年(1482年)とは、応仁の乱が終わった後ぐらいの時期のことです。
この頃の與賀神社は「与賀社大明神」と呼ばれており、且つ、与賀社大明神と呼ばれる前の神社名は「塚原大明神」だったと史料『藤龍家譜』に残っているわけです。
ということは、『佐賀県神社誌要』與賀神社ページの記述内容に俄然、真実味が出てきますね。そもそも、『佐賀県神社誌要』はここら辺の史料もちゃんと見てから説明文を書いている、ということでしょう。
では、與賀神社はどういう経緯で建立されたのでしょうか。
管理人は、與賀神社は本庄神社から勧請された神社なのだと思います。
とりあえず根拠的なものを挙げてみますが、あくまでもファンタジーであることは御了承ください。
それぞれの史料の記述内容は上記比較表に記載しています。原文は上記で紹介してきたし、もういいですよね。下記では簡単に表記するだけにします。
まずは『肥前古跡縁起』(1665年)の記述です。
『肥前古跡縁起』に記述されていた神社創建年は、本庄神社が「知僧元年」で與賀神社は「知僧三年」でした。「知僧」という年号が何年を指すのかはよくわかりませんが、少なくとも同じ書物の中で、別の神社に対して創建年を「元年」と「三年」と明記しているわけです。つまり、『肥前古跡縁起』が成立した1665年当時は、與賀神社は本庄神社よりも後に建立されたのだと考えられていることがわかります。
『肥前古跡縁起』では「知僧三年乙酉九月二十九日」に祭神である與止日女命が与賀の庄に鎮座されたと伝えていました。
『佐賀県神社誌要』(1926年)は、大正15年当時の佐賀県内の各神社の創建由来や祭神をまとめた書物です。與賀神社のページでは、欽明天皇25年に佐嘉郡小津西郷に一社を建立して「塚原大明神」と称し、これが本庄神社のことであると記述されています。さらに、翌年(欽明天皇26年9月29日)には遷宮式典が行われ、「塚原大明神」を「芦原大明神」に遷宮しています。その後天皇に奏聞し、「與止日女大明神」となったわけです。
『藤龍家譜』では文明14年(1482年)に「与賀社大明神・前名塚原大明神」を鬼門の鎮守としたという記述があるため、『佐賀県神社誌要』にある「塚原大明神から遷宮した」という記述内容と合致します。
『藤龍家譜』には「芦原大明神」の名前が出てきていませんが、「芦原大明神」の期間が短かったのであれば、そこらへんは問題視しなくてもいいんじゃないでしょうか。そもそも『佐賀県神社誌要』では欽明天皇26年に芦原大明神に遷宮され、同年の9月29日には「與止日女大明神」になっているのですから、芦原大明神だった期間は数か月だったことになりますからね。『藤龍家譜』の著者が芦原大明神時代を知らなかったということもあり得ますね。(なんて強引なw)
もしかすると「塚原大明神」が本庄の地ではなく、初めから現在の與賀神社の地に創建された可能性もありますが、それだと本庄神社の創建由来は何だったの?という話になってしまいます。
最初から丹次郎の話が與賀神社の創建由来だったとしたら、間に本庄神社を挟む必要性はありません。同じような内容の創建由来話が本庄神社と與賀神社の両方に伝わっているということは、この2つの神社は元は同じ神社だったということです。だから「佐賀郡與賀郷淀姫大明神本荘ノ神と一体分身なり」と『太宰内管志』與賀大明神条でも記述されているわけです。もしも「塚原大明神(與賀神社の前身)」が現在の與賀神社の地に創建され、本庄神社とは無関係だったならば、與賀神社は本庄神社の創建由来を奪い取ったという不名誉なことになるのではないでしょうか。
また、位置関係的な面でも「與賀神社の創建由来が本庄神社へ伝わった」という流れは考えにくいと管理人は思います。
上記項目「本庄神社と與賀神社の位置関係」で説明したように、創建由来に登場する地名等は本庄神社の近くの地名です。もしも與賀神社から本庄神社へ創建由来が伝わったのだとしたら、「慶正寺」や「妙見神社」は当地には無かったと思われます。
ということで、管理人は、與賀神社は本庄神社を勧請して創建された神社だと断言することにします。
(本当は違うのかもしれないけど、断言しておいた方がこの後の話が管理人的には面白いのでw)
さて、本庄神社が創建され、その後に與賀神社が創建されたと考えると、與賀神社よりも本庄神社の方が上位、つまり神社の格は本庄神社の方が上になるはずです。
ところが永正10年(1513年)に「正一位」を授けられたのは與賀神社でした。本庄神社ではありません。
本庄神社は無位です。本庄神社は與止日女命の神霊が降り立った地に建立された神社にも関わらず、無位のままです。
なぜ、與賀神社は正一位を授けられ、本庄神社には何も無かったのでしょうか。
與賀神社には永正10年(1513年)8月12日付けの「神宣」が残っています。
「神宣」の写真は、上記項目【1-2. 與賀神社パンフレットに記載された本庄神社祭神】で掲載していますので、そちらをご確認ください。
とりあえず、管理人がこの小さな画像から読み取った「神宣」の記述を書き出してみます。
管理人は中世の専門ではないので記述内容が合っているのかどうかはわかりません。「こんな感じで書いてあるかな?」レベルですので、間違っていても文句は言わないでください。
神宣 肥前国佐賀郡与賀庄
正一位与止日女大明神
右欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来代々被増一階勘年記為極位神者依
神宣啓状如件
永正十年八月十二日神部伊岐宿禰奉
神道長上侍従卜部朝臣(花押)
永正10年(1513年)8月12日に出された神宣です。
全部書き下せと言われたら、管理人は専門ではないのでよくわからないです。
「右欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来代々被増一階勘年記為極位神者依 神宣啓状如件」を無理やり書き下してみると、「右欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来、代々一階を増され年記を勘するに極位神と為すものに依る 神宣啓状件の如し」という感じでしょうか。(マジで間違ってると思うんですけどね)
テキトーに訳してみると、「与止日女大明神」は欽明天皇25年9月28日に現れて以来、代々神階を増されおり、年記(記録のこと?)を調べてみると極位神(位を極める、つまり正一位のこと)となるから、神宣として正一位を授けますよ、という意味になりますかね。
ここで衝撃の事実発覚ですが、「与止日女大明神」は正一位を授けられる前に既に神階を授けられていたということになります。史料が残っていないだけなのか、それとも「そういうことにした」のかは不明ですが、神宣の記述によると、代々神階を得ていたようです。
この神宣を記したのは「神道長上侍従卜部朝臣」です。
「神道長上」とは「神祇管領長上」、つまり吉田神道を継承する吉田家当主が代々名乗った称号のことです。卜部氏の流れを吉田家は継いでいますから、正式に署名をする際は「卜部朝臣」となるのでしょう。
吉田神道とは、室町時代京都吉田神社の神職吉田兼倶によって大成された神道の一流派で、吉田兼倶は永正8年(1511年)に亡くなっているため、この神宣を記したのは吉田兼倶ではないと思われます。
というか、花押部分がよくわからないので、吉田氏の誰が記したのかは不明です。
「神宣」でネット検索をすると「宗源神宣」という言葉がヒットします。
「宗源神宣」は室町後期以降、江戸時代を通じ、吉田神道(唯一宗源神道)を宣揚し、神社、神職を支配してきた吉田家が、諸国の神社に位階、神号などを授けた証状のことです。文明年間(1469年~1487年)卜部兼俱(吉田兼倶)に始まったと言われています。(【コトバンク「宗源神宣」「宗源の宣旨」】参照)
與賀神社の神宣は「神道長上」である卜部氏が記したものなので、この「宗源神宣」と同じ意味合いを持つ史料だと思われます。つまり、この神宣は吉田氏の誰かが與賀神社に対して正一位という神階を認めたものであって、時の朝廷が認めたものではない、ということでしょうか。與賀神社は、吉田神道の傘下に入ったということですね。(宗源神宣や吉田家についてはご自分でお調べください)
さて、與賀神社は鎌倉時代には「与賀庄鎮守宮」として崇敬され、北条義時が社殿を再興したり、少弐資能が洪鐘一口を寄進したりしています。少弐政資が文明14年(1428年)に与賀城を築いた際、與賀神社は与賀城の鬼門の鎮守となりました。社殿が再興され、楼門が造立されています。
佐賀郡與賀庄の鎮守宮として鎌倉時代の様子が伝えられ、また、社殿の再興や寄進が繰り返されていることからも、本庄神社があった地域よりも與賀神社があった地域の方が「格が上」だという認識が鎌倉時代にはあったのではないでしょうか。その後、與賀神社は与賀社大明神として正式に与賀城の鬼門を鎮守する社となっており、結果、與賀神社に注目が集まるようになったと思われます。
神宣が授けられた頃は、戦国時代真っ只中です。佐賀では龍造寺氏が頑張っている頃であり、龍造寺隆信の祖父が活躍していた頃だと思われます。(この時代のことはよくわからないのでテキトーに書いてます)
国人同士の争いの中で、やはり権威付けが必要になってきますよね。「うちの鎮守宮は権威ある神社である。余所の神社とは格が違う。このように有難い神社がこの城を守ってくれているのだ」的なことを言いたくなっちゃうかもしれません。(ヒドイ話の流れだw)
当時、佐賀郡與賀庄には2つの神社が存在していました。
1つは本庄神社であり、もう1つが與賀神社です。(もちろん他にも神社はあるでしょうが、ここではスルーしておきますね)
與賀神社は本庄神社から勧請された神社であり、祭神は両神社とも「與止日女命」です。
しかし、最初に創建された本庄神社は史料にも残らないレベルの神社なわけです。勧請後の與賀神社の方は鬼門の鎮守として大事にされています。何しろ城を守ってくれるありがたい神社なのです。本庄神社と同じような「村の神社」レベルでは権威が失われます。自分達ではなく権威ある第三者から「この神社は由緒ある素晴らしい神社である」と宣言してもらうに値する神社なのですから、この地域の鎮守宮として神階を授かるべき神社は與賀神社なわけです。
ところで、與賀神社・本庄神社の祭神である「與止日女命」を祀った神社で、この当時すでに正一位を授かっていた神社があります。佐賀市大和町にある與止日女神社です。
與止日女神社については、吉田神道の創始者である吉田兼倶が『延喜式神名帳頭註』(1503年)の中で説明しています。『肥前国風土記』の逸文「風土記云 人皇卅代欽明天皇廿五年甲申冬十一月朔日甲子、肥前国佐嘉郡 與止姫神 有鎮座 一名豊姫 一名淀姫」を紹介しており、欽明天皇25年甲申冬11月1日に肥前国佐嘉郡に與止姫神が鎮座されたと伝えています。
『肥前国風土記』に記述があるような由緒正しい神社である與止日女神社が、1261年時点で「與止日女神社」として正一位の神階を授かっています。同じ神様を祀っているのですから、與賀神社も同じように神階を授かっても問題は無いでしょう。そのような趣旨を吉田神道側に伝えたのではないでしょうか。
神宣が授けられた当時はどうかわかりませんが、吉田神道は時代が下ると、お金や品物をもらって高い神階を授けるということを繰り返していたようですから、もしかしたら「コレあげるから神階ちょうだい。正一位をもらってる與止日女神社と同じ神様だし、そこんとこよろしく」的な何かがあったのかもしれません。(もう完全に妄想小説の域に突入してきましたねw)
しかも與止日女神社の方は朝廷から神階を授けられていますからね。
ライバルは朝廷から正一位を授けられています。朝廷が授ける神階に対抗するような形で神階を授けていた吉田神道側が、ライバルよりも低い神階を授けるでしょうか。
いや、そんなことはしないでしょうね。吉田神道側も権威が欲しいのですから、高い神階を授けて自分達も認められたいはずです。
ということで、永正10年(1513年)、與賀神社は「正一位与止日女大明神」として吉田神道より神階を授けられました。與止日女神社と同じ「正一位」です。
神宣には「右欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来代々被増一階勘年記為極位神者依」とあります。
この記述は「欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来」つまり「欽明天皇25年9月28日に神霊が現れて以来」という意味なので、あくまでも「正一位与止日女大明神」の由来を記述しているものです。
つまり吉田神道は、與賀神社の祭神である「正一位与止日女大明神」は、「欽明天皇25年9月28日に現れた」と宣言していることになります。
吉田兼倶は『延喜式神名帳頭註』に欽明天皇25年甲申冬11月1日に肥前国佐嘉郡に與止姫神が鎮座されたと記述しています。この兼倶の記述により、與止日女神社は欽明天皇25年甲申冬11月1日に創建されたと伝えられてきました。なのにこの日付よりも前に、與賀神社には與止日女命が現れていたことを吉田神道は認めてしまったのです。朝廷が認めた與止日女神社の創建由来よりも與賀神社の與止日女大明神の方が先に当地に現れた、これは與止日女神社よりも與賀神社の方が格上になっていると言えるのではないでしょうか。
素晴らしき対抗心!!
整合性が無くなっていますが、このことに吉田神道側は気付いていたのでしょうか。
與賀神社の神宣は吉田兼倶が亡くなった後に発されているので、吉田神道側が気付いていたのか、もしくは「兼倶は間違っていたのだ」と言ってやりたかったのか、それともうっかり間違えてしまったのか、正解はわかりませんが、この與賀神社の神宣の記述内容はとても面白いものだと管理人は思います。
上記【4-3】で説明しているように、永正10年(1513年)に與賀神社が授かった神宣の日付「欽明天皇廿五年九月廿八日」は「正一位与止日女大明神」が現れた日付であって、與賀神社が創建された日付ではありません。
1665年に成立した『肥前古跡縁起』與賀大明神条に「欽明天皇勅願として知僧三年乙酉九月二十九日与賀の庄に御鎮座遊ばし侍る也」とあるように、「知僧三年乙酉」が何年なのかはわからないけれども、與止日女命が与賀庄に鎮座したのは9月29日です。9月28日ではありません。
(管理人は『肥前古跡縁起』が與賀神社の神宣を知らなかったとは考えていません。おそらく知っていて、その上でスルーしたと思っています。まあ、ただのカンです!)
「欽明天皇廿五年九月廿八日」に現れた神様に「正一位与止日女大明神」という神階が授けられたのが、與賀神社の神宣です。
でも、「欽明天皇廿五年九月廿八日」に與止日女命の神霊が現れたのは與賀神社ではなく、本庄神社だったはずです。それなのに與賀神社が神宣を授かりました。
この事実を、本庄神社側はどのように受け取ったのでしょうか。
神宣の記述を素直に読むと、「欽明天皇廿五年九月廿八日」に現れた神様に「正一位与止日女大明神」という神階が授けられたのだから、これは本来は本庄神社が授けられるべき神階なのです。
百歩譲って、同じ祭神を祀っているのだから與賀神社が正一位を授けられてもかまわないと本庄神社側が思ったとして、それでも正一位を授けられた與止日女命は本庄神社にもいらっしゃるのです。なのに本庄神社は無位のままです。まあ、本当に無位だったのかは史料が残っていないのでわからないのですが、例えば既に何かしらの神階を本庄神社が授かっていたとしても、今回は自分たちの神社から遷宮(勧請)された神社が神階を極めるわけです。自分たちは何も授からない、それでいいのかな?という疑問です。
さて、與賀神社が「与止日女大明神」として正一位という神階をもらうためには、吉田神道側に何らかの理由を説明しなければいけません。ただ「ちょうだい!」と言っても、それなりの権威というか神階を授けるに値するような理由がないと簡単には神階を授けられないでしょう。
この時、與賀神社の祭神が與止日女神社と同じ祭神であり、與止日女神社は既に正一位を授かっていることを説明したのではないか、という妄想については前述しました。
でもそれだけでは弱いでしょうね。なぜ與止日女命がこの地に祀られているのか、その理由を説明しなければならなかったと思います。
管理人は、與賀神社が与賀庄の鎮守宮として崇められ、また与賀城の鬼門の鎮守として崇拝されていたこともあり、鎌倉から室町時代ぐらいには、本庄神社よりも與賀神社の方がフィーチャーされて、格が完全に上になってしまって、祭神の由来とか「與止日女大明神」の称号の由来なんかも「與賀神社のことでした」みたいに塗り替えられつつあったのではないかと考えています。
本庄神社から遷宮(勧請)されたのが與賀神社なのですから、創建由来つまり淀姫の神霊が現れたというお話は、本庄神社と與賀神社では共通の由来となっていたはずです。
それを格が上だからということで正式に「うちの縁起なんですよ」と公表して神階をもらうためには、本庄神社側を納得させないといけないわけです。
だから、永正9年(1512年)にいきなり本庄神社の社殿を再興したのです。
という考えはどうですか?(笑)
管理人が作った比較表では、本庄神社に関する史料は欽明天皇時代の創建の話以降ほとんど見当たらず、社殿を再興したという永正9年の話がいちばん信用できる事象だと思われます。
社殿を再興する、つまり建て直してあげるから、神社創建の話を與賀神社の話として神階をもらうことを了承してくれないかな?
って感じでしょうか。
権威は與賀神社が授かり、本庄神社は実を取った。
こう考えてみたら面白いんじゃないかなぁと管理人は思うわけです。
で、実際に本庄神社再興の翌年、永正10年(1513年)に與賀神社は「正一位」を授かりました。
本庄神社は、永正9年(1512年)に鍋島清久が社殿を再興していますが、それより前の話がほとんどわかりません。少なくともネット上には史料が見当たらないです。なので、神社が創建されて以降、本庄神社は何と呼ばれていたのかわかりません。『佐賀県神社誌要』與賀神社ページでは「塚原大明神」だったことが記されていますが、創建以降ずっと「塚原大明神」と呼ばれていたのか、謎です。
しかし、本庄神社の祭神は「與止日女命」だったことは創建由来からもわかっています。
なので管理人は、実は本庄神社は「與止日女大明神」という神社名だったのではないかと思っています。
本庄神社は住民から当然のように崇拝されていた神社だったからこそ、当然のように史料には登場しなかったのかもしれません。当たり前のことは史料として遺されないのもまた真実だと管理人は思います。
與賀神社は文明14年(1482年)時点では「与賀社大明神」と呼ばれていたことは史料でわかっています。これが約30年後の永正10年には「与止日女大明神」として正一位の神階を授かっています。
「欽明天皇廿五年九月廿八日」に現れた神様に「正一位与止日女大明神」という神階が授けられたのだから、これは本来は本庄神社が授けられるべき神階だったと考えられるわけです。それを與賀神社が授かることを許したのは、與賀神社の方がこの頃には本庄神社よりも格上になってしまっていたからでしょう。
反対することもできないぐらい、格上だったんです。
だから社殿を再興してもらうことと引き換えに、與賀神社が神階を授かることを了承したと考えることもできますよね。
と同時に、「与止日女大明神」という神社名も與賀神社のものだと公表することも、了承せざるを得なかったのではないでしょうか。しかしこれは、本庄神社にとっては良いことだったのだと思われます。
自分達の神社名が正式に世間に認められるのです。つまり、本庄神社が由緒正しい神社であることを世間にアピールできることになります。今まではひっそりと主張していたこと、忘れられた由緒を堂々と表に出せるようになった。同じ祭神を祀っているのだから当然、同じ神社名を使っても問題はありません。なので、この永正10年(1512年)前後には、本庄神社は堂々と「本庄の与止日女大明神」と言えるようになったのではないでしょうか。というか、権力者から「本庄の与止日女大明神」だと認識されるようになった、という感じでしょう。
まあ、全部管理人の妄想なので、辻褄が合ってなくても知りません。
こんな感じのファンタジーがあってもいいよね、というお話ですよ。
慶長8年(1603年)に、與賀神社「三の鳥居」と本庄神社「二の鳥居」が造立されています。
與賀神社の「三の鳥居」の神額は「佐賀荘正一位与止日女大明神」で、「三の鳥居」は国の重要文化財になっています。鍋島直茂夫人藤女によって建納されたものです。
本庄神社の「二の鳥居」の神額は「本庄淀姫大明神」で、鳥居の柱には「大日本國鎮西肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神奉建立石烏居二柱 大徳本主鍋鳴加賀守豊臣朝臣直茂 慶長八年癸卯九月廿八日」との銘があるそうです。つまり、慶長8年9月28日に、鍋島直茂が「佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神」のために造立したわけですね。
同じ年に正一位の與賀神社と無位の本庄神社に鳥居を奉献することになった場合、さて、藩祖の名前で奉献すべきはどちらだと思いますかね?
なぜ、鍋島直茂は本庄神社の方を選択したのでしょうか。與賀神社の方は妻の名義です。
これって、本庄神社の方が本当は上宮だと暗に示している、とか思ってしまうのはダメですか?(笑)
しかも本庄神社の二の鳥居には「慶長八年癸卯九月廿八日」の銘があるんですよね。
9月28日ですよ?與止日女神が現れた日付なんですよねぇ。これってやっぱり偶然なのでしょうか。
ちなみに直茂は、慶長17年(1612年)に本庄神社を修復しています。本庄神社はめちゃくちゃ大切にされている、と思ってもいいんじゃないでしょうか。
あと、同じく本庄神社と直茂との関係で面白い伝説があります。
リーフレット『本庄神社略記』に記載されている伝説ですが、「慶長十七年(一六一二)、鍋島直茂公が脊振山や北山より檜材を取り寄せて社殿を造営した際造られたとされる楼門には二匹の木彫りの猿が乗っており、多久田の番匠(詫田の万乗)の作と伝えられている。昔、付近の田畑を荒らす者があり、ある夜それを追い掛けると、本庄神社の楼門に登っていき、よく見るとそれは木彫りの猿だったので、氏子の者、直茂公に伝えて眼をつぶして、手を後手に縛り上げると以後おとなしくなったという。」というお話です。
眼をつぶしちゃったんですって。
眼を‥‥「見ざる」ということでしょうか。(曲解しすぎw)
例えばこの伝説が、本庄神社の由来を與賀神社の由来として公にしてしまったことに「目をつぶる」という話だったら面白いですよね。「今後は見なかったことにします」というアピールだったら面白いな!!
江戸時代の本庄神社と與賀神社の関係について、ネット上で確認できる史料としては『肥前古跡縁起』(1665年)と『太宰管内志』(1841年)があります。
『太宰管内志』は『肥陽古跡記』を引用しており、この『肥陽古跡記』が何を指すのかは正確なところはわかりませんが、もしかすると『肥前古跡縁起』のことなのかもしれません。
上記項目【2-5. 太宰管内志の與賀神社】でも触れましたが、欽明天皇の宣旨(命令)があって造立されたという五社の霊場について、『肥前古跡縁起』与賀大明神条(1665年)の記述と『太宰管内志』與賀大明神条(1841年)の記述では違いがありました。『肥前古跡縁起』には「本社与賀淀姫大明神を始め」とあり、『太宰管内志』には「本荘與賀淀姫大明神を始め」とあったので、五社の内訳が異なることになります。
『肥前古跡縁起』与賀大明神条(1665年)
●「本社(である)与賀淀姫大明神」「八幡宮」「住吉」「乙宮」「印鑰大明神」が同時に建立
→與賀神社に関係する霊場が同時に建立されたと言っており、ここに本庄神社は無関係
『太宰管内志』與賀大明神条(1841年)
●「本荘淀姫大明神」「與賀淀姫大明神」「八幡宮」「住吉乙宮」「印鑰大明神」が同時に建立
→本庄神社も與賀神社と同時に建立されたと言っている
ということで、『肥前古跡縁起』(1665年)は本庄神社と與賀神社は別の時期に建立されたと伝え、『太宰管内志』(1841年)は本庄神社と與賀神社は同時に建立されたと伝えているわけです。
この2つの史料の成立年はおよそ180年ほど違いますから、以前は本庄神社と與賀神社は別の時期、つまり與賀神社が後から建立されたと考えられていたけれども、1840年頃には同時に建立されたと考えられていた、ということになるでしょうか。
ちなみに『肥前古跡縁起』(1665年)の記述では、本庄神社の祭神は「知僧元年甲申九月二十八日の夜」に大塚妙見の社に現れた神霊であり、また、與賀神社は欽明天皇勅願社として「知僧三年乙酉九月二十九日」に与賀庄に御鎮座されたと言っているため、本庄神社と與賀神社が同時建立ではないという記述内容に矛盾はありません。
とはいえ『肥前古跡縁起』の記述について管理人は原本を確認していないので、もしかしたら『肥前古跡縁起』も「本庄与賀淀姫大明神を始め」という記述だった可能性もあります。
その場合は『太宰管内志』與賀大明神条の記述と同じように「本庄淀姫大明神」「与賀淀姫大明神」「八幡宮」「住吉乙宮」「印鑰大明神」の五社と数えなければならないでしょう。つまり、本庄神社と與賀神社は同時に建立されたことになります。
ただし、このように理解した場合は『肥前古跡縁起』本庄大明神条と与賀大明神条で矛盾点が出てくることになりますから、そうなるともう管理人にはよくわかりません。整合性を付けるため色々と考えることはできますが、管理人はもう疲れてしまいましたので、考えることを放棄します。
いずれにしても、江戸時代は本庄神社と與賀神社は同時に建立されたと考えられていたことが史料上からも想像できます。
江戸時代は本庄神社よりも與賀神社の方が格上でしたからね。何といっても永正10年(1513年)に與賀神社は「正一位」の神階を授けられています。 しかも與賀神社の神宣には「右欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来代々」と、與賀神社の由来について触れてあります。「欽明天皇廿五年九月廿八日」に現れた神様に「正一位与止日女大明神」という神階が授けられたというのが正しい理解ですが、神宣の記述だけを見た場合、この由来はまるで「欽明天皇25年9月28日に(当地に)神霊が現れて以来」とも読み取れるわけです。與賀神社の創建由来として世の中にアピールされてしまっているわけですね。
しかも「与賀大明神御鎮座記」や「與賀神社縁起図」が作られて、與賀神社の創建由来がどんどん拡散され、本庄神社と與賀神社は同じ神様だ、ということを表に出しているわけです。こうやって本庄神社の由来を塗り替えていったのではないでしょうか。
でも本当は、欽明天皇25年9月28日に神霊が現れ、社殿が建立されたのは本庄神社なのです。もちろんこういう由来はこの地域の住民の間に伝わっていたのでしょうが、世間には與賀神社の由来となって広まっているわけですから、なかなかもどかしいものがありますね。
管理人が不思議だなぁと思ったのは、『太宰管内志』には與賀神社よりも先に本庄神社のことが記載されている点です。
與賀神社の由来として丹次郎の話があるのであれば、先に與賀神社について記載すればいいと思うんですよね。正一位を授かっているのはあくまでも與賀神社であり、「与止日女大明神」と称するように命じられたのも與賀神社なわけですから。でも、丹次郎の話は本庄神社にしか伝わっていない話だったとしたら、與賀神社の由来として丹次郎の話を書くわけにはいかない。だから先に本庄神社の話を書いて、後から「與賀神社は本庄神社の神と一体分身である」「本庄淀姫大明神と與賀淀姫大明神は同時に造立された」と書いて、ほんのちょっとだけ「本当は本庄神社の由来なんですよ」と告げているのかもしれませんね。(という妄想です!)
さて、管理人の妄想全開の話では、本庄神社の由来は格上だった與賀神社の由来として塗り替えられてしまったということになりますが、それでも本庄神社側にはプライドがあったと思うんですよね。
もう一度思い出していただきたいんですが、與賀神社のパンフレットの一文です。
また昔から「与賀淀姫大明神、本庄の神と一体分身なり」、「本庄・淀姫・与賀三身同一体なり」の言伝えがあり、本庄神社(旧郷社)・与止日女神社(肥前一の宮、旧県社)・与賀神社は共に御祭神は与止日女神で、いづれも欽明天皇二十五年の御鎮座と伝えています。旧社格県社。
「本庄神社」「與止日女神社」「與賀神社」はすべて欽明天皇25年の創建だと與賀神社のパンフレットには記載されていますが、リーフレット『本庄神社略記』では欽明天皇24年が創建年になっていたはずです。
この「欽明天皇24年創建」に関しては、他の史料では記述がありません。『佐賀県神社誌要』『さがの歴史・文化お宝帳』『與賀神社パンフレット』では本庄神社創建は欽明天皇25年です。本庄神社のリーフレット『本庄神社略記』でのみ、「欽明天皇24年」だと断言しています。
管理人が持っているリーフレット『本庄神社略記』は本庄神社が出しているものですから、本庄神社に関する正式な御由緒が記載されているものです。本庄神社自身が「うちの創建にはこんな由来がある」と正式に宣言しているもの、ということです。
そこには「欽明天皇二十四年(五六三年)九月二十八日の夜、末次村の丹次郎が大塚妙見の松原にて神霊を感じ、領主小寺左衛門太夫に告げ、小寺左衛門朝廷のゆるしを得、社殿を造立す。」と記載されています。またネットで検索してみると、本庄神社は昭和38年(1963年)に鎮座1400年祭が行われたとの記載もありました。つまり、本庄神社は西暦563年(欽明天皇24年)が創建年であり、神社としての祝い事も欽明天皇24年を創建年として開催してきた歴史があるわけです。
本庄神社の創建が欽明天皇24年だとすると、本庄神社は欽明天皇25年を創建年としている與賀神社(與賀神社公式ホームページ・與賀神社パンフレット)や與止日女神社(與止日女神社旧ホームページ及び與止日女神社略記パンフレット)よりも先に、與止日女命を祀った神社ということになります。
でも『本庄神社略記』以外の媒体では、本庄神社の創建は欽明天皇25年となっているんですよね。
これは、乱暴な言い方をすれば、本庄神社の創建年は「他の神社の都合が良いように書き換えられた」と言えるのではないでしょうか。他の神社、特に與賀神社からすると、本庄神社が與賀神社よりも早く創建されたと世の中に伝わるのはちょっとマズイわけですよ。だって、與賀神社の方が本庄神社よりも格が上だし、「正一位」を授けられた「与止日大明神」の称号は與賀神社がもらっているんですから。神社創建の由来だって與賀神社のものなんです。そういう風にしてしまった。
でも、本庄神社側としては、うちの方が間違いなく與賀神社よりも先に創建されている。そのことはちゃんと世の中に伝えたい。だからリーフレット『本庄神社略記』で「創建は欽明天皇24年だ」と宣言しているのだと思います。
下記で説明してみますが、管理人は、本庄神社が欽明天皇24年創建だと宣言するだけの根拠らしきものもあると思っています。まあ、この根拠が管理人が思うようなものと成り得なかったとしても、本庄神社には間違いなく「欽明天皇24年に創建された」と伝わっていた事実があります。
史料に残っていなくても、口伝という形できちんと受け継がれてきたのであり、この事実を蔑ろにしてはいけないと管理人は思います。
本庄神社は欽明天皇24年に創建されました。だからこそ、1400年祭などの記念祭祀は欽明天皇24年(西暦563年)から数えて行ってきたわけです。
『本庄神社略記』の記述は、本庄神社のプライドだと管理人は思います。
塗り替えられてしまった創建由来を、わかる人にはわかるような形で伝えている。
そんな風に思えてしまうのです。
江戸時代の寛文5年(1665年)に成立した『肥前古跡縁起』には見慣れない年号が記述されています。
『肥前古跡縁起』本庄大明神条に「知僧元年甲申九月二十八日の夜」、与賀大明神条に「知僧三年乙酉九月二十九日」という表現があるのです。
そもそも「知僧」という年号は正史に登場せず、日本の年号として正式に認められた年号(公年号)ではありません。
日本最初の年号は「大化の改新」で有名な「大化」です。ところが日本には、「大化」の前に使われていた年号(有名なのは法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘や『伊予国風土記』逸文にある「法興」)が存在しています。公年号から派生したと考えられる年号(「白鳳文化」の「白鳳」)などもあり、これらは「公年号」に対して「私年号」や「逸年号」などと呼ばれています。
古代に使われていた年号は「古代年号」と呼ばれ、特に九州で使用されていたとして「九州年号」と呼ばれています。(ここら辺のことはテキトーに説明していますので、詳細はきちんとご自分でお調べください)
現代も「インターネット元年」なんて表現しますし、こういう年号も私年号ということになります。情報が均一に広まっていたわけではない昔は、色んな場所で色んな年号が使われていてもおかしくはないでしょう。
ということで以下、『肥前古跡縁起』に記述されている「知僧元年甲申」「知僧三年乙酉」という年号について考えてみたいと思います。
まずは「知僧元年」が公年号の何年に相当するのかを調べることになりますが、実は「知僧」は「大化」よりも前の年号のため公年号自体がありません。このような場合は、例えば「推古天皇30年」のように、当時在位していた天皇の○年目の治世の年、という呼び方をします。「知僧」に関しては欽明天皇在位時代の年号です。
また、「知僧」に関しては下記で表を作成しています。見出しで「私年号」と「九州年号」を使い分けて表記しているので、混乱しないように、以降は公年号ではない年号のことを「逸年号」と表記します。
『肥前古跡縁起』には「知僧元年甲申」「知僧三年乙酉」という記述があるのですから、「知僧」は当地つまり肥前国で実際に使用されていた年号だと思われます。しかもこの年号は『肥前古跡縁起』だけではなく『妙法寺年録』や『善光寺縁起』など他の史料にも登場する年号なので、これらの史料の記述と正史に記述された内容を比較して、「知僧元年」は正史でいう「○○元年」にあたる、といった感じで比定することができるわけです。
逸年号は「知僧」だけではなく他にもたくさんあるようで、ネット上にはそれらをまとめた表や説明文が掲載されています。色んな説があるようですが、これらを詳細に調べるのは管理人の人生が終わっても追い付かないでしょうから、とりあえず「知僧」について「Wikipedia」の記述を元にした表を作ってみました。
念のために書いておきますが、Wikipediaの記述内容が正しいとは限りません。あくまでも目安程度だと理解した上でご覧ください。
表の見出し「逸年号と干支」より右側(水色の見出し部分)が、Wikipediaに記述されていた内容をまとめたものです。
「逸年号と干支」は、Wikipediaを参考にして書き出した、知僧元年前後の逸年号と干支です。一般的には「師安元年は甲申の年である」と言われているようです。この表は左から右に見てもらえばいいので、例えば「知僧元年」という年号については、『肥前古跡縁起』では「甲申」の年だと記述されているけれども本来は「乙酉」の年であり、欽明天皇26年に相当すると言われている、という見方になります。
また、見出し「干支を基準とした天皇在位年と西暦」は、一般的に天皇在位年が西暦何年にあたるのかを記載したものです。「欽明天皇25年は西暦564年に相当する」と言われています。
逸年号(私年号、九州年号)に関してはWikipediaでも表にまとめられており、「私年号」ページの「日本の年号一覧表」と「九州王朝説」ページの「九州年号表」の2種類の表がありました。
例えば「師安元年」行を見た場合、Wikipediaの「私年号」では師安元年は欽明天皇25年(563年)と記述されていて、「九州年号」では欽明天皇25年(564年)と記述されている、ということになり、この2つの表記では西暦年に1年のズレがあります。
師安元年が西暦年では何年に相当するのかはWikipediaの「私年号」ページと「九州王朝説」ページで異なるわけで、どちらが正しいのかは管理人にはわかりません。Wikipediaの記述がズレていることについては、そうなってしまった根拠があるとは思いますが、詳しいことを調べる気は全くないので、そのまま「そういうもんなんだな」で済ませたいと思います。
まあ、おそらくですが、欽明天皇の即位が539年(宣化天皇4年)12月5日なので、この年を欽明天皇元年とするのか、翌年の540年を元年とするのかでズレが生じているのではないでしょうかね。
ということで、表を確認すると『肥前古後縁起』の記述についてはこのような理解になると思います。
1.知僧元年甲申という年はない
2.知僧三年乙酉という年もない
3.つまり『肥前古跡縁起』の記述からは本庄神社と與賀神社の創建年はいつのことなのかわからない
ハイ、さっぱりわかりませんね(笑)
『肥前古跡縁起』に記述されていた「知僧元年甲申」と「知僧三年乙酉」という年は、実際には存在しません。知僧元年、知僧三年といった年号がいつのことなのかわからないわけですから、干支部分の「甲申」「乙酉」を元に比定するのが一般的な考え方だと思われます。現在は干支と言われても意味不明ですが、干支による日付や年の表記は古代から続いていた表記方法であり、昔はむしろ干支で日付や年を判断していたわけです。干支がわかれば何年に相当するのか比定できることになります。
『肥前古跡縁起』に記述されていたのは欽明天皇在位時の「知僧元年甲申」と「知僧三年乙酉」でした。幸いにも天皇名が判明しているわけですね。干支は60年で一回りするので、欽明天皇在位時の甲申の年は1回しかありません。(欽明天皇は32年間在位したと言われています)
干支に注目すると、欽明天皇在位時の「甲申」の年は「欽明天皇25年」です。「乙酉」の年は「欽明天皇26年」となります。
上記【5-1.「知僧」比定表】によれば、本来は欽明天皇の甲申の年は「師安元年」にあたり、乙酉の年こそが「知僧元年」にあたるわけですが、ここでズレが生じているわけです。つまり『肥前古跡縁起』の「知僧元年」や「知僧三年」という年号については信用できない、という判断になると思われます。
ところで、與賀神社の神宣には「右欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来」との記述がありました。これは正一位となった「与止日女大明神」が現れた日付を指していますので、與止日女命が神霊となって本庄の地に現れたのは欽明天皇25年9月28日ということです。
神宣は永正10年(1513年)のものなので、永正10年時点では、本庄神社の創建は欽明天皇25年9月28日だと考えられていた、ということでしょう。
寛文5年(1665年)に成立した『肥前古跡縁起』本庄大明神条では「知僧元年甲申九月二十八日の夜」に神霊が現れていますが、欽明天皇在位時の「甲申の年」は1回しかなく、それが欽明天皇25年になることは前述した通りです。
つまり、與賀神社の神宣と『肥前古跡縁起』の記述には一応、矛盾は無いことになります。どちらも欽明天皇25年を指しているからです。
本庄神社の創建由来となった神霊が現れた日について、少なくとも1513年の時点では「欽明天皇25年9月28日」だと考えられており、しかも現存する史料では與賀神社の神宣より前の史料は見当たらないようです。(本当はどこかに現存しているかもしれませんが、ネットでは見つけられませんでした)
本庄神社や與賀神社の由来を説明しようとした場合、この「欽明天皇25年9月28日」という日付が正しい日付、由来通りの日付だと認識されているのは当然のことだと思われます。(だって一番古い史料にそう書いてあるのだから)
神霊が現れたのは「欽明天皇25年」だという認識は、例えば大正15年(1926年)に出版された佐賀県の各神社の祭神や由緒をまとめた『佐賀県神社誌要』でも表れています。
『佐賀県神社誌要』の県社與賀神社ページでは、「人皇第三十代欽明天皇の御宇、二十五年佐嘉郡小津西郷に一社を建立して塚原大明神と称せり。(是則ち現在の市外本庄村郷社本庄神社なり)」と記述されています。
本庄神社(塚原大明神)が創建されたのは欽明天皇25年だとハッキリと書いているわけです。そして「而して翌年蘆荻繁茂したる此地を相して社殿を建設し芦原大明神と称し、九月二十九日遷宮の式典を挙げ、当時の探題小寺左衛門大輔其由来と状況を闕下に奏聞したるに」とあるので、「翌年」つまり欽明天皇26年9月29日には遷宮式典が行われ、「塚原大明神」を「芦原大明神」に遷宮したと記述されています。
本庄神社よりも後に與賀神社の社殿が建立されたことは『肥前古跡縁起』に見える記述(知僧元年と知僧三年)です。『肥前古跡縁起』を参考にして記述されたと思われる『佐賀県神社誌要』ですら、「知僧元年甲申」が「欽明天皇25年甲申」だと判断することについて矛盾は無いという認識なのでしょう。
与賀の庄に与賀淀姫大明神が鎮座したのは「知僧三年乙酉九月二十九日」だと『肥前古跡縁起』は言っていましたが、「乙酉」が「甲申」の次の年であることから、『佐賀県神社誌要』は「而して翌年」と記述していると思われます。
やはり年号ではなく干支を重視して、各年号を比定したのでしょう。
永正10年(1513年)の與賀神社神宣には「右欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来」と記されていました。
『肥前古跡縁起』は江戸時代の1665年に成立しているので、本庄神社の創建由来を記した時点で、與止日女命の神霊が現れたのは欽明天皇25年9月28日の出来事だったと言われていたことは知っていたと思います。(まあ、與賀神社側が神宣を表に出していたならば、という話ですが)
それなのにわざわざ「知僧元年甲申」と記述しているのはどういう意図があるのでしょうか。しかも、前述した通り「干支」を間違えて記述しているのです。
「甲申」の年は「師安元年」のはずです。「知僧」ではない。
今は「甲申」とか「乙酉」とか言われても「?」って感じですが、当時はむしろ干支の方が有名というか理解されていた概念なわけです。「甲申」はいつのことなのか、「甲申」の次の干支は「乙酉」であることなど、著者もわかっていたはずです。なのに、なぜこんなわけのわからないことになっているのか?
なぜ『肥前古跡縁起』は「知僧」という年号を使っているのか、管理人なりに考えてみました。もちろんただの妄想です。
さて、『肥前古跡縁起』には「知僧元年甲申九月二十八日の夜」や「知僧三年乙酉九月二十九日」という表現があります。いわゆる逸年号が使われているのはこれだけなのか、管理人は『肥前古跡縁起』の他の神社の御由緒を見てみることにしました。
参考にしたのはサイト「本地垂迹資料便覧」様です。
こちらのサイトでは、神仏習合時代における本地垂迹説に関する資料を抜粋してまとめられています。管理人は『肥前古跡縁起』を直接読むことはできませんから、こちらのサイト様の記述を参考にしました。
サイト「本地垂迹資料便覧」様の項目「西海道」の中の「肥前」地域に掲げられている各神社の本地垂迹説に関する資料の中から、『肥前古跡縁起』を参考に記述されている神社を調べてみました。
もちろん『肥前古跡縁起』に記述された神社が、サイトにすべて挙げられているかどうかは管理人にはわかりませんので、そういう不鮮明なところは無視することにします。
『肥前古跡縁起』を参考に記述された神社は複数ありましたが、その中で、創建年や関係年が記されている神社は下記の9社です。
1. 千栗八幡宮 「神亀元甲子年聖武天皇の勅願」
2. 与止日女神社 「欽明天皇の勅願として二十五年甲申御鎮座改めさせ給ふ」
3. 与賀神社 「欽明天皇勅願として知僧三年乙酉九月二十九日与賀の庄に御鎮座遊ばし侍る也」
4. 天山社 「大宝二年壬寅霜月十五日天山嶽に飛来り」
5. 本庄神社 「知僧元年甲申九月二十八日の夜、大塚妙見の社にして来現垂跡し玉ふ神霊也」
6. 金立神社 「金立山雲上寺は人皇七代の帝孝霊天皇七十二壬丑年秦の始皇三番の王子徐福太子垂跡有りて」
7. 天山神社 「文武天皇の御宇大宝二年壬寅四月朔日、小城郡禅定山に来現あり」
8. 高野神社 「建久四年の秋の比多久太郎宗直と云者」
9. 八幡神社(高木八幡神社) 「文安年中源氏一族高木越前守貞長敵追討の為に此国に来り」
神社の由来には略されている部分もあるので確実ではありませんが、神社創建に関係する年号を略することはあまりないと思いますので(創建年は神社にとって大事なものですからね)、『肥前古跡縁起』の記述で年号が記載されていたのはやはりこの9社だと思います。
さて、この9神社のうち、干支まで記載されているのが1番から7番までの7社です。
その中で記載されている年号と干支が合致しているのが、こちらの4社です。
1. 千栗八幡宮「神亀元甲子」
2. 与止日女神社「欽明天皇二十五年甲申」
4. 天山社「大宝二年壬寅」
7. 天山神社「大宝二年壬寅」
残りの3社は年号と干支が合致していません。
3. 与賀神社「知僧三年乙酉九月二十九日」
5. 本庄神社「知僧元年甲申九月二十八日の夜」
6. 金立神社「帝孝霊天皇七十二壬丑年」
つまり、およそ半分の年号と干支が合致していないわけですから、『肥前古跡縁起』の年号と干支に関する記述はけっこうテキトーなのではないか、ということになります。(こじつけw)
注目したいのが与止日女神社の創建年です。
与止日女神社の記述には「欽明天皇二十五年甲申」とあるわけですから、『肥前古跡縁起』の著者は欽明天皇25年が「甲申」の年であることを知っていたことになります。
與止日女神社の創建年は『肥前国風土記』逸文に記述されていたと吉田兼倶が『延喜式神名帳頭註』で記述しているので、著者はこの記述を見ていたはずです。見ていなくても與止日女神社の創建年ぐらい與止日女神社に訊けばすぐわかるわけで、欽明天皇25年甲申に創建されたと與止日女神社が表明した(又は『延喜式神名帳頭註』を見た)ので、その通りに記述したと思われます。
欽明天皇の「甲申」の年の話なわけですよ、これは。
ならば、著者が本庄神社の創建由来に「欽明天皇の勅願也」と記して、且つ「知僧元年甲申九月二十八日」という日付を記述した時、欽明天皇の「甲申」の年のことなのですから、それは欽明天皇25年だと知っていたことになります。なぜ著者は「欽明天皇二十五年甲申」と記述しなかったのでしょうか。
『肥前古跡縁起』の著者が本庄神社の創建由来に「知僧元年甲申九月二十八日の夜」と記述した理由は何なのか?
それはつまり、本庄神社側が「うちの創建は知僧元年甲申九月二十八日の夜に與止日女命の神霊が現れたことです」と言ったから、と考えられませんか?
そう言われたから、そのまま記述した。
年号と干支がズレていても、神社側がそう言っているのだから、その通りなんでしょう?という感覚だったのではないでしょうか。実際に『肥前古跡縁起』には年号と干支がズレたまま記述された神社が存在していますからね。
そして与賀神社の「知僧三年乙酉九月二十九日」は、本庄神社側の発言だったのではないでしょうか。
だからこそ『肥前古跡縁起』は与賀神社条で「与賀淀姫大明神本庄淀姫一躰分身」と最初に記述しているのではないでしょうかね。与賀淀姫大明神は本庄淀姫と一躰分身なんですよ。本庄神社側の創建が「知僧」なんですから、与賀神社も「知僧」じゃないとおかしいでしょう?
もしも與賀神社側に確認した創建由来を元に『肥前古跡縁起』に記述したのであれば、それはやはり神宣に記述された「欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来」の年号が記述されていたはずだと管理人は思います。実際に與止日女神社は「欽明天皇二十五年甲申」と記述されているのですから、わざわざ「知僧」を使わなくても良いはずです。ここはやはり、本庄神社側の発言から「知僧」という年号を使ったのではないかと思うのです。
つまり管理人の妄想では、『肥前古跡縁起』の著者は、各神社から創建由来を聞き取って記述しており、年号と干支がズレていたとしても、それはそれということで無視して由来の通りに書いたのではないか、ということです。
そう考えると、大事なのは干支ではなく年号の方、つまり「知僧元年」と「知僧三年」という年に注視すべきではないでしょうか。「甲申」の年が正式な天皇在位年と合致するのかどうかは無関係で、本庄神社としては、自分達の神社の創建より2年後に與賀神社が創建された(勧請された)という認識だったのではないかと思うのです。
本庄神社に伝わる創建由来を元に『肥前古跡縁起』に「知僧元年甲申」「知僧三年乙酉」と記述されたのだとしたら、現在、本庄神社がリーフレット『本庄神社略記』で創建年を欽明天皇24年だとしている根拠は何なのでしょうか。
無理やりこじつけて考えてみたいと思います。
さて、本庄神社側の認識(つまり『肥前古跡縁起』の記述)では、「知僧元年甲申九月二十八日の夜」に與止日女命の神霊が現れています。「知僧元年甲申」が「欽明天皇25年」に比定されることは前述したので、與止日女命の神霊は欽明天皇25年9月28日に本庄の地に現れたことになります。
また、『肥前古跡縁起』では「知僧三年乙酉九月二十九日」に與賀神社へ勧請された(与賀の庄に御鎮座遊ばし侍る也)と記述されていますから、「乙酉」の年、つまり與賀神社の社殿が建立されたのは「欽明天皇26年」となります。
●欽明天皇25年9月28日に與止日女命の神霊が現れて本庄神社が創建された
●欽明天皇26年9月29日に現在の與賀神社の地に與止日女命が鎮座した
この考え方は「甲申」や「乙酉」などの干支を基準にして考えたものです。干支から天皇在位年が比定されました。
ところが、本庄神社側の認識としては、あくまでも「知僧元年」と「知僧三年」という年号を基準に創建年を考えていたのではないでしょうか。
つまり「與賀神社が創建される2年前には本庄神社は創建されていた」という考えです。本庄神社と與賀神社の創建年は「2年」違うのだ、ということですね。
で、上記の「欽明天皇25年9月28日」という日付は永正10年の與賀神社神宣に既に記述されている日付なわけです。少なくとも永正10年(1513年)の時点で、神霊が現れたのは「欽明天皇25年9月28日」だと宣言されてしまったのです。
本当は違うんです。あくまでも神霊は「知僧元年9月28日」に現れたのであって、それがイコール「欽明天皇25年9月28日」だとは誰も言っていません。本庄神社には「知僧元年9月28日」としか伝わっていなかったのではないでしょうか。
なのに「知僧元年9月28日」は「欽明天皇25年9月28日」だと勝手に宣言されてしまいました。「年」は見てもらえず「干支」で判断されてしまいました。
しかも、この日付は「正一位与止日女大明神」が現れた日付として世に出ています。與賀神社の祭神である「正一位与止日女大明神」は、「欽明天皇25年9月28日に現れた」と宣言されているわけです。
その後、與賀神社側は本庄神社から勧請されたという事実を隠すようになりますよね。隠すというか、うやむやになっていくというか‥‥。江戸時代には本庄神社と與賀神社は同時に創建されたと認識されるようになったことは前述した通りです。
いくら與賀神社が鎮守宮として鎌倉時代から本庄神社よりも格が上だったとしても、本庄神社が先に創建されていたという事実は曲げるわけにはいきません。
與賀神社は「知僧三年乙酉」に勧請されていると本庄神社側には伝わっているのですから、これをちゃんと主張しなければいけません。
本庄神社には「知僧元年甲申」に神霊が現れ、「知僧三年乙酉」に與賀神社に勧請されたという言い伝えが存在していました。自分達の神社が創建された2年後に與賀神社の社殿が建立された、これは本庄神社側の真実です。
ところが「知僧元年」は、本庄神社側の思惑とは別に、勝手に「欽明天皇25年」だと宣言されてしまいました。今更「知僧元年」が何年なのか、比定した結果を宣言してもかき消されてしまいます。
本庄神社が「知僧元年」を基準に何かを発しようとしても、それは「欽明天皇25年」だと言われてしまうのですから、本庄神社側に残されたものは、あとは「知僧三年乙酉」に與賀神社に勧請されたという自分達側に伝えられている與賀神社創建由来だけです。ここに関しては、誰も口に出していないのですから。
與賀神社側が本庄神社に伝わる「知僧元年甲申」という創建年を干支で判断したならば、與賀神社が創建(勧請)された「知僧三年乙酉」も干支で判断しなければいけません。「甲申」の次の年は「乙酉」ですから、與賀神社の創建は「欽明天皇26年9月29日」となります。これは本庄神社に伝わってきた與賀神社創建(勧請)年について、本庄神社側が與賀神社側の比定基準(干支)に合わせて比定した結果です。つまり同レベルで比定してあげたら、あなたたちの創建(勧請)は欽明天皇26年ですよね?ということです。
その上で、本庄神社側の比定基準つまり「知僧元年」と「知僧三年」で比定すると、欽明天皇26年は「知僧三年」を指します。
ならば、本庄神社が創建された「知僧元年」は「欽明天皇24年」です。
本庄神社は、自分達の神社の創建が欽明天皇24年であることを主張することで、同時に、與賀神社が本庄神社よりも後に創建(勧請)されたことを主張しているのではないでしょうか。
現在、與賀神社が欽明天皇26年に勧請されたことはほとんど伝わっていません。そう主張しているのは『肥前古跡縁起』と『佐賀県神社誌要』、他には『佐賀県神社誌要』の記述を参考に記されたものぐらいではないでしょうか。
與賀神社は本庄神社と同じ神様を祭神としているのだから、本庄神社の創建由来はつまり與賀神社の創建由来と同じものとなる。そういう考えで、勧請されたことをうやむやにして本庄神社の由来までも飲み込んでしまいました。
永正10年(1513年)の與賀神社の神宣には「右欽明天皇廿五年九月廿八日垂跡以来代々被増一階」とあるので、與賀神社は正一位を授かる前に既に何らかの神階を授けられていた可能性があります。與賀神社は本庄神社が追い付けないぐらい格の高い神社となってしまっているのです。
でも本当は、本庄神社の方が先に創建されている。
この事実までも無かったことにはできないのです。
だからこそ、本庄神社は「知僧元年甲申」と「知僧三年乙酉」という日付を『肥前古跡縁起』に伝えたのでしょうし、「欽明天皇24年創建である」と主張し続けることで、與賀神社の方が本庄神社よりも創建年が遅いのだとこっそり、でもわかる人にはわかるという形で主張しているのでしょう。
また、上記【5-1.「知僧」比定表】では、欽明天皇25年の西暦年を「私年号」では563年と表記しています。
もしも本庄神社の創建が「欽明天皇25年」と言われていることを本庄神社側も一応認識していたとして、それでも明確に「欽明天皇25年」という年号で伝えられているのではなく逸年号「知僧元年甲申」で伝えられてきたことを重要視するならば、やはり「甲申」の年が何年に相当するのかで判断をすることになると思われます。
「甲申」の比定をした時に、一般的な天皇在位年と西暦の関係や九州年号ではなく「私年号」の西暦「563年」説を採ったと考えることも可能ではないでしょうか。
「私年号」の計算では、欽明天皇の甲申の年は西暦では563年に相当します。
西暦563年は、一般的には欽明天皇24年に相当します。だから、本庄神社の創建年は「欽明天皇24年(563年)」なのです。
與賀神社よりも先に創建されているのだから、與賀神社が欽明天皇25年創建だと言うならこちらはそれよりも前に創建されてると主張しますよ。だから創建は「欽明天皇24年(563年)」です。
無理やりですが、こんな考え方だった可能性も、あるかもしれませんよね。
以上、こんなに書いちゃって何を主張したかったのか管理人自身もよくわからなくなりましたが、要するに、本庄神社のプライド(欽明天皇24年創建説)は絶対に捨ててはいけないよね、ということです。
ネットで本庄神社を検索すると、ほとんど欽明天皇25年創建だと記されています。でも『本庄神社略記』では欽明天皇24年だと断言している。これを無視するのはフェアではないです。本庄神社がそう言っているのだから、創建は欽明天皇24年なんです。勝手に変更しちゃダメです。
ただ、なぜ欽明天皇24年だと言えるのか、それを考えてみると非常に難しかったですね。
もはや何がしたかったのか意味不明な文章をたくさん書いてきましたが、管理人は楽しかったので、もうそれでいいです。
間違っていても鼻で笑われても、どうでもいいです。
本当のことなんて誰も知らないしわからないのだから。
タイムマシンが出来て、本庄神社が創建された時期に移動することができたら、その結果を管理人に伝えてください。それまでは、このページの妄想話について批評することはやめてくださいね(笑)
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