與止日女神社
所在地:佐賀県佐賀市大和町大字川上1-1
撮影日:2015年01月01日、2016年01月01日、2017年04月19日、2018年01月01日
掲載写真:35枚
祭神:與止日女命・大明神
創建:欽明天皇二十五年(564年)甲申冬十一月朔日
與止日女神社(よどひめじんじゃ)は佐賀県佐賀市大和町の川上川(嘉瀬川)傍にあります。別名は「河上神社」で肥前国一宮(いちのみや)です。
神社御由緒では祭神について「與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。」と記されていますが、大正15年出版『佐賀県神社誌要』「河上神社」では、祭神は「與止日女命神」「大明神」と記されています。創建は『肥前国風土記逸文』の記述より、欽明天皇25年(564年)で、2014年には創建1450年式年大祭が行なわれました。
與止日女神社は肥前国一宮ですが、肥前国には一宮神社がもう一社あります。佐賀県三養基郡みやき町にある「千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)」です。
與止日女神社には古代からの格式があり、また千栗八幡宮は宇佐八幡宮の五所別当という権威があり、しかもそれぞれに後陽成天皇が「ここは一宮だよ」という勅額を下賜したために、どちらが本当の肥前国一宮なのか争いが起こりました。(後陽成天皇は慶長7年(1602年)に「大日本国鎮西肥前州第一之鎮守
宗廟河上山正一位淀姫大明神一宮」と書いた勅額を與止日女神社に下し、慶長14年(1609年)には「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」の勅額を千栗八幡宮に下しています)
60年ぐらいもめていたようですが、結局江戸幕府が喧嘩両成敗の形で「以後はどちらも一宮の呼称を許さない」と決着させたようです。でも今現在はどちらも一宮を称していますね。なんじゃこりゃw
さて、このページを作成した当時(2015年05月24日)は與止日女神社の写真が手元に3枚しかなく、しかも全て元旦仕様(2009年、2015年)の写真だったため、普段の與止日女神社の様子がさっぱりわからないページを作成していましたが、今回改めて画像を掲載しなおしたら、なんと35枚になってしまいました。なんじゃこりゃw
3枚しか境内写真が無いにも関わらず独立したページを作成していたのは、與止日女神社の祭神について調べたので、それを書きたかったんですよね。今回の編集で画像が増えた&祭神に関する文章も増えたので、ページ容量が重くてなかなか開かないんじゃないんですかね。知らないけど。
まあ「せっかく文章を書いたから掲載しちゃおう!」というノリで作ったページなので、興味がない方はスルーしてください。文章全部を読む意味はありませんね。駄文ですから。
ただの管理人の自己満足サイトなんで細かいことは気にしないことにします。アホな管理人が気の赴くままにやってしまった結果です、ハイ。
今回編集している時に気付いたんですが、與止日女神社の公式ホームページが移転していました。移転しているんですが、元のホームページも少しだけ残されています。でも、管理人がこのページを作った2015年05月当時に記載されていた文章が消えていました。マジかよ!
ホームページに書かれていた内容を使って祭神の話を進めていたんですが、文章が消えている以上は「ホームページにこう書いてあった!」と断言できなくなってしまいました。仕方がないですね。
結局ファンタジーを書いているだけですから細かいことは無視してください。妄想文章に証拠を求めるなんてナンセンスですよ(笑)
【計35枚掲載】
記:2015年05月24日
編集:2018年04月30日
御社殿
本殿/五間社流造、側面四間
中殿/正面一間、側面四間
拝殿/正面五間、側面三間、入母屋造、唐破風付、別棟神饌所付
総べて屋根銅板葺、総素木造、随所絵様彫刻。文化十三年(1816年)火災焼失後、鍋島家より再建のもの。(後略)
與止日女神社 旧HP「肥前一之宮 與止日女神社略記」より
拝殿の内側を撮影した写真について、與止日女神社ホームページに記載されている説明文を参考に、ここでは簡単に説明したいと思います。
ちなみに2018年04月現在、與止日女神社の公式ホームページは2つ存在しています。ホームページの移転作業中のようですが、旧ホームページ記載内容そのままを現ホームページに移転しているわけではない(簡略化されている)ので、下記の説明は、両方の記載内容を合わせて説明したものになります。
拝殿天井のたくさんの絵馬は、「山幸彦海幸彦縁起絵巻」「菅原道真公絵巻」です。合計250枚が掲げられているそうです。
拝殿正面に掲げられている木額は、佐賀の七賢人の一人である副島種臣の書です。「火國鎮守 明治丁亥夏」(明治20年)と刻書されています。
副島種臣書の下あたりに薄っすらと見えている黒い額(掲載している画像では額の下部しか見えていません)は、後陽成天皇宸筆の勅額です。ホームページには「神殿正面」に掲げられていると記載されています。「神殿」とは「本殿」のことでしょうか。
「木堅額 黒漆地に金文字」で2行、「大日本国鎮西肥前州第一之鎮守 宗廟河上山正一位淀姫大明神一宮」と刻書されています。與止日女神社が肥前一宮であることを表すために、慶長七年(1602年)に賜ったものです。現在の與止日女神社ホームページでは、この勅額の写真を見ることができます。
與止日女神社拝殿の左側を撮影した写真です。
この建物、何なのかよくわかりません。もしかしたら、公式HPの建築内容説明文で「拝殿」の説明に書いてあった「別棟神饌所付」というヤツなのかもしれません。(知らないけどねw)
與止日女神社本殿です。
拝殿正面に向かって左側(西側)からぐるっと回る感じで散策しながら撮影しました。なので最後の2枚は本殿に向かって右側(東側)の写真になります。
掲載している画像からわかるように、管理人は與止日女神社の千木に注目しながら撮影しました。
千木が男千木(千木の先端が地面に対して垂直に削られているものを男千木といいます)なので、與止日女神社に祀られている神様は男の神様ということになります。
あれ?與止日女神社の祭神は「與止日女命」ですよね。女の神様じゃないですか。それなのになぜ、與止日女神社本殿の千木は男千木なのでしょう?
という疑問について、管理人の考えをこのページの下部で書きましたが、長文なので読まなくていいです。内容もテキトーなので気にしないでください。ハイ。
與止日女神社の拝殿前の狛犬です。
画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。
吽形は足元に玉を置いていますので「玉取りの狛犬」ですね。
阿形は、なんとなくですが口の中に玉があるように見えます。撮影した複数の写真で確認してみましたが、口の中に何かがあるのはわかるんですけど、それが「玉」だとは断言できません。でも、玉っぽいです。
【狛犬サイトへ】
與止日女神社の拝殿側から数えて2番目の狛犬です。
與止日女神社の1450年式年大祭を機に、平成26年(2014年)10月26日付で奉献されています。
画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。
撮影したのは2016年です。まだ新しいので、なかなか白いです。
吽形は頭の上に角があり、阿形は口を開けています。
元々は別の狛犬がこの台座の上にあったようですが(別の狛犬の写真を掲載しているサイトがあります)、かなり古くて痛みも激しかったので(写真で見ると顔が削れている)新しくなったようですね。
【狛犬サイトへ】
與止日女神社の拝殿側から数えて3番目の狛犬です。
画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。
昭和12年(1937年)9月に奉献されたと銘がありました。字が消えかかっていますが、辛うじて奉献年がわかって良かったです。
阿形は口を開けていて、吽形は口を閉じています。
ちょっと平べったい顔ですね。というか、阿形の顔がなんだか宇宙人みたいです。
【狛犬サイトへ】
與止日女神社の境内には拝殿・本殿だけではなくて、「與止日女天満宮」「與止日女神社西門」「金精さん」などの史跡がありますので、ここで紹介したいと思います。
「金精さん」とか、本当は説明板の文章を記述したくなかったんですけど(なんか、ストレートに説明されててアウトな気がする。フィルタリングで引っ掛かりそうw)、でもちゃんと説明板に書いてあるわけだし、これだけ掲載しないというのも変なので、しぶしぶ掲載します(笑)
あ、画像化しちゃおうかな?そうすればフィルタリングとかで引っ掛かることはないですね。そうします。
與止日女天満宮
天満宮は、学問の神様として知られている菅原道真公を祭神として祀っています。
天満とは、菅原道真公の神号の正式名が「天満大自在天神」で、あらゆる天界の神々を支配し自在に操り、その神を享受することから、その名があります。
学問向上や受験にご利益があり、またボケ封じの神様として地域の人々の信仰を集めています。
拝殿の左側(境内西側)に「與止日女天満宮」がありました。
小さな祠なので神社を訪れた方たちは気付かずに素通りしてしまうかもしれません。実は管理人も素通りしていた一人なんですが(気付いていなかった)、與止日女神社の創建1450年式年大祭(平成26年・2014年10月26日)を機に境内が整備された際に、案内板が設置されました。たぶん。(本当に大祭を機に説明板が立ったのかは不明w)
與止日女神社の旧ホームページには「パワースポット①與止日女天神さん」というサイドメニューがあって、そこにはなかなかアグレッシブな説明が書かれていました。
「與止日女神社 旧HP」より引用
境内の西側(道路寄り)、社務所の北隣にヒッソリと小さな祠〔ほこら〕があります。 境内に入っても見過ごしてしまうほどの祠ですが、地元の人には、特に受験生には知られているようです。 受験前にお参りすると、ほとんどの人が合格するらしい。 祭神は大宰府と同じく「菅原道真」公です。 ただ、文殊さんのように有名ではないので、今後はこの天神さんをパワースポットとして、もっと名前が出るように売り出そうではありませんか。そのためには、このみすぼらしい祠をもう少し整備して、看板を立て周辺をそれらしいイメージで飾りたいですね。
この文章がいつ頃ホームページに掲載されたのかはわかりませんが、「與止日女神社を盛り上げていくぞ!」という気持ちが伝わってくる文章です。こういうの、管理人は本当に好きなんですよ。だから応援したくなってしまうのです。
看板が設置されたことによって人々の目に留まるようになったのは間違いないです。実際に管理人は案内板があったので「あれ?ここに何かあるな」と思ってお参りさせていただきました。
受験生はぜひ、お参りくださいませ。
與止日女神社 西門
●昭和六十一年に県の重要文化財指定
●室町時代後期(一四七〇年以降)に創建され、柱の楠材は当時のものと言われています。元亀元年(一五七〇年)の今山の戦いで一部焼失したが、元亀四年(一五七三年)、龍造寺政家(隆信の長男)と神代長良(勝利の長男)によって修復再建されたもので、町内では最も古い建物です。昭和四十八年に大補修が行われています。
與止日女神社本殿の左側(境内西側)に「西門」があります。
佐賀県重要文化財で、切妻造りの四脚門です。
與止日女神社の旧ホームページに「西門」に関する記述がありましたので引用します。
御社殿
本殿/五間社流造、側面四間
中殿/正面一間、側面四間
拝殿/正面五間、側面三間、入母屋造、唐破風付、別棟神饌所付
総べて屋根銅板葺、総素木造、随所絵様彫刻。文化十三年(1816年)火災焼失後、鍋島家より再建のもの。西神門、四脚門、屋根本瓦葺
棟木銘写に「奉造立肥前国第一宮河上淀姫大明神西ノ門一宇 大檀那龍造寺太郎四郎藤原鎮賢神代刑部大輔武邊長良 願主蓮乗院増純 元亀四歳癸酉三月吉祥日」とあり、元亀四年(1573年)に造立されたもので、正面、側面の蟇股、破風の懸魚等に室町後期の様式が見られます。昭和61年、県重要文化財に指定されました。
與止日女神社 旧HP「肥前一之宮 與止日女神社略記」より
この書き方、ぱっと見たら混乱しそうですね。
管理人は社殿について書かれた文章だと思って「拝殿」を紹介する際にいったん全部掲載しましたが、よく見たら文章の後半は「西門」について書かれたものでした。本殿や拝殿に関する記述は「鍋島家より再建のもの。」で終わっていたようです。なので、上記「拝殿」項目では、「後略」として続きの文章を略しています。
さて、「御社殿」説明文章内の「西神門、四脚門、屋根本瓦葺」以降は「西門」に関する説明です。
西門横の案内板の「龍造寺政家」がどこからきたのだろう?と思っていたら、この「御社殿」説明文に「大檀那龍造寺太郎四郎」と記載されていました。政家の通称が「太郎四郎」で、西門の棟木銘の写しに名前が挙がっています。棟木つまり棟札です。「写し」とあるので、本物はまだこの西門にあるのでしょうね。
掲載している画像は與止日女神社本殿側から撮影したものです。つまり、門の裏側ということになります。正しい面(表側)から撮影するのを忘れました。うっかりしてました。ごめんなさい。
この境内の写真は2017年04月19日に撮影したものです。写真の右下に日陰用の庇がありますね。その北側に「金精さん」があります。
「金精さん」の説明板には「河上神社金精さん由来記」とありますが、「河上神社」は與止日女神社の別名です。『佐賀県神社誌要』(大正15年)では「河上神社」という神社名です。
管理人は「金精さん」の説明文のうち神功皇后のくだりが非常に気になっています。與止日女様は本当に神功皇后の妹なのでしょうか。
與止日女神社の境内の写真を2枚、並べてみました。
1枚目が2017年04月19日に撮影した写真で、2枚目が2018年01月01日に撮影した写真です。
普段の與止日女神社は緑豊かで、晴れた日に訪れるととても気持ちの良い場所です。とても静かな神社ですが元旦の景色は様変わりし、ひっきりなしに初詣客が訪れます。地域の人々に愛されている神社ですね。
ちなみに20年以上前の初詣で管理人が與止日女神社を参拝した時、「拾ってください」と書かれた箱に子犬が数匹入れられていました。いったん家まで帰りましたが、気になったのでまた與止日女神社に戻ったところ、子犬は1匹になっていました。巫女さんに尋ねたら、何匹かは初詣客が連れて帰ったそうです。
残り物には福がある、ということで最後まで残っていた子犬を拾って帰りました。我が家にやってきた雌の子犬は縁起の良い犬として愛され、16年の天寿を全うしました。管理人は、與止日女神社を参拝する時はいつも、その犬のことを思い出します。
(こういう話を書いたからといって、神社に犬を捨てるようなことはしないでください。拾った我が家は別段不幸などなく過ごしましたが、捨てた貴方様にはきっと罰が当たります。そういうものなのです。)
與止日女神社の「三の鳥居」です。駐車場の北側にあります。
駐車場の南側にある鳥居が「二の鳥居」だそうですが、管理人は駐車場に車を停めたらすぐに拝殿へ向かってしまうので、「二の鳥居」を見たことがありません。ちなみに「一の鳥居」は與止日女神社境内地より南へ2kmぐらい行った立石交差点のところにあるそうです。
上掲画像は2枚とも2017年04月19日に撮影したものです。
1枚目が拝殿に向かって撮影(表)、2枚目が拝殿側から撮影(裏)したものです。
與止日女神社のホームページに説明文がありましたので、引用しておきます。
【三の鳥居(肥前鳥居)】(旧ホームページより引用)
境内にあります。石造明神鳥居で、その形式、珠に笠木鼻の形に特有の様式が認められ、肥前鳥居と称し、柱に「慶長十三歳仲秋吉祥日 鍋島信濃守藤原朝臣勝茂」の銘があります。昭和六十年、町重要文化財に指定されました。
【三の鳥居/佐賀市重要文化財】(新ホームページより引用)
佐賀初代藩主鍋島勝茂公が慶長13年(1608年)に寄進した鳥居。柱や貫、笠木が三本継ぎになっていて、柱の下部が太くなっている形状は「肥前鳥居」の特徴を示している。
要するに、初代佐賀藩主鍋島勝茂が慶長13年(1608年)に寄進した肥前鳥居ということですね。
旧ホームページでは「町重要文化財」となっていますが、現在は佐賀市の重要文化財となっています。
2018年01月01日に神社を訪れた際にも「三の鳥居」を撮影していたので、写真を掲載しておきます。
鳥居の神額部分をアップにしてみましたが、何と書いてあるのかよくわかりません。
『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』というサイトの「与止日女神社三ノ鳥居 一基」ページに詳細が記載されていたので、引用してみます。
【与止日女神社三ノ鳥居 一基】(「さがの歴史・文化お宝帳」より引用)
肥前鳥居の特徴は笠木と島木が一体化し木鼻が流線的に伸びていること、笠木・貫・柱が三本継ぎになっていることである。柱に刻まれた銘文により、佐賀初代藩主鍋島勝茂が慶長13年(1608)に寄進したことがわかる石造肥前鳥居である。
鳥居額には『肥前鎮守正一位河上淀姫大明神』とあり、柱には「扶桑国肥前州路鎮守正一位河上淀姫大明神 奉建立石鳥居三柱 鍋島信濃守豊臣朝臣勝茂」とある。
鳥居の神額には「肥前鎮守正一位河上淀姫大明神」と書かれているそうです。
柱には「奉建立石鳥居三柱」とあるそうですが、三の鳥居だけではなく一の鳥居も二の鳥居も、鍋島勝茂が寄進したのでしょうか。(詳しいことは全くわかりません)
與止日女神社(河上神社)の祭神「與止日女命」と「大明神」について管理人が調べたことを書いてみたいと思います。
祭神「與止日女命」は記紀神話(古事記・日本書紀)には登場しません。どういう神様なのかよくわからないため、古来より多くの人が調べていて、いろんな説があります。これらの説を参考にしながら、管理人も色々と考えてみました。
以下の文章はあくまでも管理人の妄想文章です。管理人は趣味でこの文章を書いていますので、詳細な証拠や史料などは求めないでください。ただのファンタジーです。よろしくお願いします。
一応、章立てしていますので目次的なものを紹介しておきます。
最後に注釈というか説明という意味で『肥前国風土記』の写本についての文章を掲載していますが、この文章は管理人の説を補強するために色々と捻じ曲げて書いちゃったんで、信じない方がいいと思います。
文章内で掲載している画像はすべて「国立国会図書館デジタルコレクション」より引用しています。画像部分をクリックすると拡大します。
<目次>
・與止日女神社の祭神
・世田姫とは(肥前国風土記)
・與止姫とは(肥前国風土記逸文)
・世田姫と與止姫の関係
・世田姫はなぜ豊玉姫と言われるのか
・肥前国風土記の「荒ぶる神」とは何か
・與止日女神社の祭神についてのまとめ
・(注)肥前国風土記写本について
いつ頃のことなのか忘れましたが、管理人は與止日女神社を訪れた際に『與止日女神社略記』というリーフレットを頂いていました。
このリーフレットは「国鉄長崎本線」という文字の上からシールを貼って「JR長崎本線」に書き換えられているので、たぶんまだJRが国鉄だった頃に作られたリーフレットだと思います。與止日女神社の御由緒が記載されているので、祭神の部分だけ書き出してみます。
二、御祭神 與止日女(よどひめ)命
與止日女命は「八幡宗廟之叔母、神功皇后之妹」にます尊い神様であります。また一説に豊玉姫命(竜宮城の乙姫様で、神武天皇の御祖母にます)とも伝えられています。
ということで、與止日女神社の祭神は「與止日女命」です。
ちなみに與止日女神社の公式ホームページ(旧ホームページ)や境内の立札には「與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。」と記されています。
御神徳は「海の神、川の神、水の神として信仰され、農業をはじめ諸産業、厄除開運、交通安全の守護神」です。川上川の傍に社殿があることからも、祭神がいわゆる水の神であることは容易に納得できます。
神社名からも祭神が「與止日女命」であることがわかりますが、大正15年(1926年)に出版された『佐賀県神社誌要』によると、祭神は「與止日女神」と「大明神」です。
大正15年当時は「與止日女神社」ではなく「河上神社」と称されています。
現在、「国立国会図書館デジタルコレクション」にて該当ページを閲覧できますので管理人も確認してみました。間違いなく「與止日女神」と「大明神」が併記されていました。
縣社 河上神社
佐賀郡川上村大字川上
祭神 與止日女神 大明神
一宮記に曰く。肥前国佐賀郡與止日女神八幡叔母神功皇后の妹なりと。肥前風土記に曰く、此川上に石神あり、世田姫海神と云ふ、年常(謂鰐魚)逆流潜上して、此神の所に到る、海底の小魚多く之に従ふ、其魚を畏るゝ者は殃(わざわい)なく、其魚を捕食する者は死す、此魚二三日を経て還て海に入ると。今風土記の説を按するに、本社より里程凡二十丁、川の東北に山あり梅の上と云ふ。此山の半腹に石神鎮座せり、神体は三面の大石にして高さ丈余二面は壁立し、一面は其上を蓋ふ。古来より土人石神と称して、十一月二十日に祭祀す、而して社伝には、與止日女神と称し、風土記に此川上に有石神名曰世田姫海神云々淀の訓、世止と世田と相通す此を以て考ふるに、石神世田姫を鎮祭せしものならん、神名帳、頭住(管理人注:『延喜式神名帳頭註』のことだと思われる)に豊姫とあり。世田姫は蓋し豊玉姫命ならんか。欽明天皇二十五年甲申十一月朔日甲子肥前国佐賀郡與止日女神有鎮座一名豊姫神社神名帳注に貞観十五年九月十六日正五位下を授くとあり、又三代実録に正四位を下授けられたること見えたり、其後弘長元辛酉二月廿日正一位を授けられたり。延喜式内の社にして、大日本国鎮西肥前第一之鎮守宗廟正一位河上山淀姫大明神一宮との後陽成天皇の勅額あり。明治四年十二月縣社に列せらる。祭神大明神は合祀により追加
とりあえず、『佐賀県神社誌要』の記述を書き出してみました。上記画像の右側のページです。
この『佐賀県神社誌要』の内容に関しては、まあ、ちょっと信用できない部分があるので(後述しています)、内容は話半分で読んでいただければいいのではないでしょうか。(オイw)
もうちょっと詳しく言うと、『佐賀県神社誌要』は『肥前国風土記』の久老本を元にして記述されていると思われるのですが、管理人はこの「久老本」が信用できないと思っているわけです。管理人が問題にしているのは「年常(謂鰐魚)」の部分ですが、まあ、このことに関しては後述している項目「(注)肥前国風土記写本について」をお読みください。
さて、祭神の「與止日女命」と「大明神」はどういう神様なのか、実はよくわかっていません。
「與止日女命」は記紀神話には登場しないため、Wikipediaの記述も「神功皇后の妹という。また一説に、豊玉姫であるとも伝える」だそうで実に曖昧です。
與止日女命が神功皇后の妹であり、同時に豊玉姫だということはあり得ないと思われます。なぜなら、時代が違いすぎるからです。
神功皇后は、第15代応神天皇の母親です。つまり第14代仲哀天皇の妻ですね。
豊玉姫は初代天皇である神武天皇の祖母です。ね、時代が違いすぎるでしょう?
でも與止日女命は「神功皇后の妹」といわれ、また、別の説では「豊玉姫」だといわれているそうです。これっていったいどういうことなのでしょうか?
ということで非常に気になりましたので、ネットで調べてみました。
與止日女神社がある川上の地には昔、「世田姫(よたひめ)」伝説がありました。
この伝説は、西暦740年頃に成立したといわれる『肥前国風土記』(和銅6年の詔[713年]により編纂開始)に記載されています。
この画像は、昭和12年(1937年)に岩波書店から刊本された武田祐吉編『風土記』の中の「肥前国風土記」部分の画像です。
まずは、該当箇所を書き出しておきます。
ページの下部分には本文に対する注釈が記載されていますので、そちらも書き出してみます。
引用:『風土記』武田祐吉 編/岩波書店 昭和12年(1937年)
又この川上(かはかみ)に石神(いしがみ)あり。名を世田姫(よたひめ)といふ。海の神[鰐魚を謂ふ。]年常(としごと)に、逆(さか)ふ流(ながれ)を潜(くぐ)り上りてこの神の所に到るに、海の底の小魚多(さは)に相従へり。或るは人その魚を畏(かしこ)めば殃(まが)なく、或は人捕り食へば死ぬることあり。凡そこの魚等、二三日(ふつかみか)住(とどま)りて、還りて海に入る。
-------------------------------
○細注、久老本、年常の下にあり。(※「細注」とは「謂鰐魚」部分のことです)
○川上の石神に通ふ海の神
魚等 - 等字、猪熊本により補ふ。下の住字、久老本経、又猪熊本による。
武田祐吉編『風土記』の中の「世田姫」伝説に関する記述を書き出しました。
この記述は『肥前国風土記』佐嘉郡条を書き下したものですが、元の文章はもちろん漢文です。
念のために肥前国風土記の「久老本」に記述されている原文(漢文)を書き出しておきます。(久老本については、後述している「(注)肥前国風土記写本について」をお読みください)
此川上有石神。名曰世田姫。海神年常逆流潜上到此神所。海底小魚多相従之。或人畏其魚者無殃。或人捕食者有死。凡此魚経二三日還而入海
『肥前国風土記』に記されている世田姫伝説の内容は、上記の書き下し分によると、
「この川上に石神がいる。名は世田姫という。海神(鰐魚のこと)が魚を引き連れて毎年この石神のところに川を遡ってやってくる。人々がこの魚を丁重にもてなせば災いは無いが、人々がこの魚を食べてしまえば死ぬこともある。この魚たちは2~3日留まって、やがて海へ還っていく。」
というものです。
與止日女神社御由緒(旧ホームページ)によると、このお話に出てくる魚は鯰(ナマズ)だと考えられているそうです。神社の傍を流れる流域は聖地であり殺生禁断で、特にナマズは祭神の使いとして土地の人は食べないとのこと。
ちなみに、この伝説にいう「鰐魚」とは、正確には何の動物なのかわかりません。「サメ」なのか「ワニ」なのか、古代史では論争が起こっています。詳しくはWikipedia「和邇」のページでも読んでいただければよいと思います。管理人的には、海神なので「サメ」かな?とか思ったりもしますが、「ワニ」でもどちらでも良さげです。ちなみに神話で有名な豊玉姫の本来の姿は「八尋和邇(やひろわに)」つまり18mぐらいのサメだといわれています。
いずれにしても、伝説の中身が時間の経過とともに変化していくことはよくあることですし、そもそも與止日女神社の流域は聖地ですから、川上川の主として崇められた鯰(ナマズ)が神の使い(眷属)となるのは全くおかしなことではありません。
同じく與止日女神社のホームページで紹介されていましたが、一説によると與止日女神社創建当時は自然石を御神体として祀ったとされ、それに類するものが対岸の上流にある巨石群(現在の「巨石パーク」のこと)ではないかと言われているそうです。(管理人注:2018年04月現在、與止日女神社のホームページが移転され、自然石を御神体として祀ったという記述がなくなっています。マジかよっ!!)
『肥前国風土記』では世田姫は「石神」だとハッキリ書いてありますので、巨石群(石神)つまり「世田姫」は與止日女神社の御神体(祭神)である、と考えられます。
『肥前国風土記』には「逸文」が存在します。
「逸文」は、昔は存在していたけど現在は伝わっていない文章のことです。原文には残っていない(現在は欠落していて記述内容がわからない)けれども、何かの書で「〇〇いはく」のような形で引用されていると元の文章がわかるよね、ということです。その元の文章と思われるものを「逸文」と言います。
『肥前国風土記』の逸文は『延喜式神名帳頭註』に記されています。
『延喜式神名帳頭註』は『延喜式神名帳』(『延喜式』巻九・十のこと。927年成立。)の注釈書で、吉田兼俱により文亀3年(1503年)に著されました。『延喜式神名帳』というのは、当時存在していた神社の名前が公的に記載されている文書です。(ざっくりと説明しています)
この画像は、昭和12年(1937年)に岩波書店から刊本された武田祐吉編『風土記』の中の「肥前国風土記逸文」部分の画像です。上記で『肥前国風土記』を紹介した際に掲載した本と同じ本です。
上記と同じように、該当箇所を書き出しておきます。
ページの下部分には本文に対する注釈が記載されていますので、そちらも書き出しておきます。
引用:『風土記』武田祐吉 編/岩波書店 昭和12年(1937年)
肥前の国
與止姫の神社
風土記に云はく、人皇卅代欽明天皇の廿五年甲申冬十一月朔日甲子、肥前の國佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座(しづまりま)すことありき。一(また)の名は豊姫、一(また)の名は淀姫なり。
○風土記云 人皇卅代欽明天皇廿五年甲申冬十一月朔日甲子、肥前国佐嘉郡 與止姫神 有鎮座 一名豊姫 一名淀姫(神名帳頭註)
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豊姫 - 考證にゆたひめと訓む。
(※「考證」とは享保18年[1733年]に成立した度会延経著『神名帳考証』のことだと思われます。詳細は面倒なので調べていません。)
武田祐吉編『風土記』の中の「肥前国風土記逸文」與止日女神社条に関する記述を書き出しました。
記述の中に原文(漢文)もありましたので、そのまま掲載しています。
まあ、この漢文は読み方を間違えることはないぐらい簡単な漢文ですので、掲載されている書き下し文も間違いは無いと思われます。
ちなみに「肥前国風土記逸文」與止日女神社条については、以降、本当に「逸文」が『肥前国風土記』に記述されていた文章だとして話を進めますのでご注意ください。
この逸文に関しては、鎮座の件などは通常『風土記』では記述されないから怪しい、なんて言われていたりします。後から作ったりテキトーにそれっぽく追加した文章なのかもしれません。ただ、全くの嘘だとも断言できません。真偽不明なのです。
タイムマシンでもない限り誰も断言なんてできないのですから、管理人も「そう言われている」というテイで話を進めていきたいと思います。
ということで、『肥前国風土記』には「世田姫」に関する記述の前なのか後なのかはわかりませんが、「人皇卅代欽明天皇の廿五年甲申冬十一月朔日甲子、肥前の國佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座(しづまりま)すことありき。一(また)の名は豊姫、一(また)の名は淀姫なり。」と記述されていたわけです。
欽明天皇25年甲申冬11月1日甲子に、肥前国佐嘉郡に與止姫神が鎮座した、ということです。
逸文が掲載されている『延喜式神名帳頭註』は『延喜式神名帳』(927年)の注釈書(説明文)です。
『延喜式神名帳』に記載されている神社名「與止日女神社」を説明するにあたって『肥前国風土記』の記述から引用した、ということです。
鎮座したという「與止姫神」は、「姫」つまり「日女(ヒメ)」ということですから、神社名「與止日女神社」の「與止日女神」と同じ神になります。
『延喜式神名帳』に記載されている神社「與止日女神社」は現在の「與止日女神社」のことです。つまり、逸文にある欽明天皇25年11月1日に肥前国佐嘉郡に「與止姫神」が鎮座した、その神社は現在の與止日女神社だということです。こうやってきちんと逸文に記述があることから、與止日女神社の創建は欽明天皇25年(564年)甲申冬11月1日だと言われています。
また、逸文に「一(また)の名は豊姫、一(また)の名は淀姫なり。」とあるため、與止姫神の別名は「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」だったことがわかります。
あ、念のため書いておきますが、『肥前国風土記』と「逸文」の記述でわかっていることは、『肥前国風土記』が成立した740年頃当時、肥前国佐嘉郡の川上には石神「世田姫」がいたという伝説があり、また、欽明天皇25年11月1日に肥前国佐嘉郡に「與止姫神」を祀った神社が創建された、ということだけです。
神社が創建された場所は不明です。現在の與止日女神社がある川上傍かもしれないし、世田姫がいた巨石群かもしれないし、別の場所かもしれません。創建年はわかるけれども創建時の場所は不明なのです。
上記では、『延喜式神名帳頭註(肥前国風土記逸文)』(1503年)に記載されている「與止姫」と、現在の「與止日女神社」の祭神である「與止日女」は同一神である、という話をしました。
では、『肥前国風土記』(740年頃)に記載されている「世田姫」と『延喜式神名帳頭註(肥前国風土記逸文)』(1503年)に記載されている「與止姫」はどういう関係なのでしょうか。
管理人は、同一神だと考えています。
そもそも『肥前国風土記』の佐嘉郡条に石神「世田姫」が記されており、その記述の前後かどうかは知りませんが同じ『肥前国風土記』に書かれていたと言われる「逸文」で「與止姫が肥前国佐嘉郡に鎮座している」と記述されているわけですから、同一神と考えるのが自然だと思います。
與止日女神社御由緒(旧ホームページ)の記述に創建当時は巨石群の自然石を御神体として祀ったとの説が紹介されていましたが、この説も「世田姫」と與止日女神社の祭神が同一神であることを補強しています。
また、現在與止日女神社がある「川上」、『肥前国風土記』で石神世田姫がいると書かれている「川上」、石神が祀られていたと思われる巨石群は與止日女神社の上流「川上川」にあるという事実、位置関係からも「川上」は同一川を指していると思われるわけで、このことからも「世田姫」と「與止姫」は同一神だと考えられます。
更に、風土記逸文で、「與止姫(よとひめ)」の別名を「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」だと記述されていることがポイントだと思います。この別名により、「世田姫(よたひめ)」という読みが変化して「ゆたひめ」「よとひめ」「よどひめ」と呼ばれるようになったのだと想像できるからです。
「世田姫(よたひめ)」から「よとひめ」へと読みが変化したことにより、神社名は「豫等比咩大神」(860年)、「豫等比咩神」(873年)、「與止日女神社」(927年)と変化していきます。
風土記逸文は『延喜式神名帳』(927年)の注釈書に記述されているため「與止日女神社」表記だし、神様の名前も「與止姫神」表記なのでしょう。「よとひめ」への読みの変化が「與止姫」という漢字を生み出したのだと考えられます。
また、「よどひめ」への読みの変化が「淀」の字があてられるようになった一因だとも思われます。「淀」の字は川の淀みが神格化されたものなのでしょうね。
(※神社名の変化については後述しています)
このように読みの変化から考えてみても、「世田姫」と「與止姫」は同一神だと思われます。
ということで、上記掲載画像『佐賀県神社誌要』の記述「而して社伝には、與止日女神と称し、風土記に此川上に有石神名曰世田姫海神云々淀の訓、世止と世田と相通す此を以て考ふるに、石神世田姫を鎮祭せしものならん」の通り、『肥前国風土記逸文』に記載されている肥前国の「與止姫の神社」は、石神「世田姫」を祀っている神社だと考えられます。
「世田姫」と「與止姫」は同一神であり、「世田姫」=「與止姫」=「豫等比咩神」「與止日女」「淀姫」だと考えて間違いないでしょう。
上記では、石神「世田姫」と「與止姫」が同一神だと思われる理由を説明しました。
ということは、「與止日女神」は「石神」だということです。
『延喜式神名帳』(927年)での與止日女神社の神社名は「與止日女神社」です。風土記逸文によると祭神は「與止姫」であり、現在の與止日女神社の祭神は「與止日女命」です。
しかし、西暦961年頃に與止日女神社から勧請された京都府伏見区の「與杼(よど)神社」では、主祭神は「豊玉姫命」になっています。
おそらくこの頃には「與止日女命は豊玉姫命と同じ神様だ」という認識ができていたと思われ、それが現在の與止日女神社(旧ホームページ)の祭神の説明「與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。」に繋がっているのだと思います。
でもちょっと待ってください!
「與止姫」つまり「世田姫」は「石神」だったはずです。
「與止姫=世田姫(石神)」だったはずなのに、なぜ961年時点では「與止姫=豊玉姫(海神)」になっているのでしょうか。
「石神」から「海神」への変化は激しすぎませんか?
どういう過程で「世田姫=與止姫=豊玉姫」になったのでしょう?
という疑問を持ちましたので、勝手に考えてみたいと思います。
『肥前国風土記』の記述より、石神「世田姫」が巨石群に鎮座していたことが「昔話」として肥前国佐嘉郡川上に伝わっていた、ということがわかります。風土記が成立したのはだいたい740年頃のことなので、700年代前半の時点で「石神世田姫が巨石群にいた」という話が既に伝説になっていたわけです。
風土記逸文では、欽明天皇25年(564年)に「與止姫神」が鎮座したと書かれています。
この逸文の漢字「與止姫」表記は、『延喜式神名帳』(927年)に記載されている神社名「與止日女」表記に従って記述されたのではないかと管理人は考えています。
神社創建の欽明天皇25年時点で「與止姫神」という漢字表記だったのか、それとも『肥前国風土記』成立時の740年頃の時点で「與止姫神」という漢字表記だったのか、詳しいことは不明です。ただ、逸文が風土記にきちんと記述されていた文章なのだとしたら、『肥前国風土記』成立時の740年より以前から、欽明天皇25年に創建されたと言われる石神「世田姫」(與止姫神)を祀った神社の祭神名は「よとひめ神」だった、と考えられるわけです。すなわち「よたひめ」から「よとひめ」へと呼び方が変化しているわけですね。
(風土記成立の740年頃の時点で既に「與止姫」という漢字表記だったのか、それとも吉田兼俱が『延喜式神名帳』に記載された神社名表記に従って逸文に「與止姫」と表記したのかは不明だけれども、少なくとも700年代前半の時点で祭神は「よとひめ」と呼ばれていたと言えるでしょう)
とまあ、ここまでは管理人の憶測でしかありませんので、正史での神社名表記を見てみます。
『日本三代実録』によると貞観2年(860年)に與止日女神社は従五位下から従五位上の神階を授けられており、この時の表記は「豫等比咩大神」です。
同じく『日本三代実録』によると、貞観15年(873年)に神社が正五位下を授けられた時の表記は「豫等比咩神」です。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「與止日女神社」と記載されています。
740年頃 昔、肥前国佐嘉郡の川上には石神「世田姫」がいた(『肥前国風土記』)
740年頃 「ヨトヒメ神」が欽明天皇25年(564年)に鎮座した(『肥前国風土記』逸文)
860年より前 おそらく「豫等比咩大神」に従五位下の神階を授けられる
860年(貞観02年) 「豫等比咩大神」に従五位上の神階を授けられる(『日本三代実録』)
873年(貞観15年) 「豫等比咩神」に正五位下の神階を授けられる(『日本三代実録』)
927年(延長05年) 「與止日女神社」の表記あり(『延喜式神名帳』)
『日本三代実録』貞観2年(860年)2月8日条には「従五位下豫等比咩大神。久治国神。天山神。志々伎神。温泉神。並従五位上。」と記載されているため、貞観2年よりも前に「従五位下」の神階を授けられていたことがわかります。「従五位下豫等比咩大神」とあるので、「従五位下」をもらっていた時点で「豫等比咩大神」という名前だったのではないでしょうか。神社名が違っていたならば、その旨が三代実録に記載されているはずだと思いますね。
いつ従五位下の神階をもらっていたのかは不明です。でも、少なくとも20年ぐらいは前だったんじゃないでしょうかね。800年代前半の時点で、神社名の漢字表記は「豫等比咩大神」だったと思われます。
そしてこの神社名「豫等」の漢字が、祭神名が「よたひめ」から「よとひめ」へと変化したことを裏付けるものだと管理人は思うのです。
「豫等」という漢字は明らかに音から付けられた漢字です。
「等」という文字は、「と」とは読むけれども「た」とは読みません。「豫等」は「よた」とは読めないのです。もしも何かしらの意味があって「豫等」という漢字が使われていたとしたら、『延喜式神名帳』(927年)で「與止」の漢字があてられるはずがありません。ずっと「豫等」で表記されているはずです。
当時の祭神が「よと」と呼ばれていたからこそ、その音に合わせて漢字「與止」が付けられたのだと思われます。ということは、祭神の名前は「よたひめ」から「よとひめ」へと変化したということであり、800年代前半の時点で、既に祭神名は「よとひめ」だったと思われるわけです。
もしも逸文の記述が信用できない、後世に書かれたものだったとしても、神社名が「よとひめ」や「よどひめ」になったのは、『日本三代実録』に記載されている「豫等比咩」表記から考えても800年代前半よりも前の出来事だと思われます。「よた」が「よと」に変化するのに50年ぐらいだとちょっと短い気がしますので、700年代ぐらいには「よと」と言われていたのかもしれません。そう考えると740年頃の『肥前国風土記』に記載されていたという逸文の記述は、既に「與止姫(よとひめ)」と呼んでいるのですから、あながち間違いではないのかもしれません。(まあ、ただのフィーリングですけども)
ということは、風土記逸文の「人皇卅代欽明天皇の廿五年甲申冬十一月朔日甲子、肥前の國佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座すことありき。一の名は豊姫、一の名は淀姫なり。」という記述も少しだけ信ぴょう性が出てくるのではないでしょうか。
「一の名は豊姫」、この表記が「豊玉姫」出現を考えるポイントだと思われます。
與止日女神社がある川上川の上流には現在も巨石群があり、與止日女神社創建当時は自然石が御神体だったという説もあることから、創建当時、つまり欽明天皇25年(564年)時点で祀られていた祭神は「石神」だったと考えられます。
『肥前国風土記』の石神世田姫伝説は、「海神(鰐魚)が魚を引き連れて毎年この石神(世田姫)のところにやってくる。人々がこの魚を丁重にもてなせば災いは無いが、人々がこの魚を食べてしまえば死ぬこともある。この魚たちは2~3日留まって、やがて海へ還っていく。」というものです。
川上川がありますから、この川を使って魚たちが訪れることは可能でしょう。わざわざ石神世田姫のところへやってくるのですから、海神よりも石神の方が格が上だと思われます。朝貢しているのではないでしょうか。もしくは「魚(海神が連れてくる人)を食べれば(殺せば)人々は死ぬこともある」という内容から、いわゆる同盟国だったのかもしれません。
石神と海神の関係(朝貢もしくは同盟国。山の民と海の民の交流。)は昔からこの地に伝わっていたので、石神世田姫のお話が『肥前国風土記』(740年頃成立)に収められました。
しかし、與止日女命は記紀神話には登場しないので、石神世田姫と言われても誰のことを指すのか他地方の人にはわからない。逸文に「與止姫神が鎮座した」と書かれていますが、この「與止姫神(=世田姫)」が誰のことを指すのか不明なままなのです。(「世田姫」も「與止姫」も、どちらも記紀神話には登場しないのですから、公には認識されていない神様だということです)
『肥前国風土記』が成立して以降「與止姫神って誰のこと?」という状態が続いていたのではないか、と想像できるのも、「豊玉姫」出現のポイントだと思います。
石神「世田姫」の読み「よたひめ」が「よとひめ」に変化したことにより、神社名が「豫等比咩大神」(860年)、「豫等比咩神」(873年)、「與止日女神社」(927年)と変化したと思われることは、既に説明しました。風土記逸文には「與止姫」と記載されていますが、これも「よたひめ」が「よとひめ」へと変化したことから「與止姫」という漢字が生み出されたのだと思われます。
「よとひめ」という読みは石神「世田姫」からきているのですから、與止日女神社の祭神「與止日女命」は石神だということです。
では、與止日女神社の祭神「與止日女命」が海神「豊玉姫(とよたまひめ)」のことだと言われるようになったのは、なぜなのでしょうか。
管理人は「世田姫(よた)」が「豊姫(ゆた)」に変化して、その結果「豊玉姫」が認識されたのだと考えています。
「先にどこからか豊玉姫の名前が伝わり、その名前から石神の名前が世田姫(よたひめ)と付けられて(トヨタマ→ヨタ)風土記に掲載された」という順番ではなく、元々この地の伝説として先に世田姫の名前があった、という考えです。
『肥前国風土記逸文』には「人皇卅代欽明天皇の廿五年甲申冬十一月朔日甲子、肥前の國佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座すことありき。一の名は豊姫、一の名は淀姫なり。」と記述されており、「與止姫」は「豊姫」とか「淀姫」と呼ばれていたことがわかります。
上記で紹介した武田祐吉編『風土記』の中の「肥前国風土記逸文」與止日女神社条に「考證にゆたひめと訓む」と注意書きがあったように、「豊姫」の読みは「ゆたひめ」です。
『肥前国風土記』が成立した740年頃には、「昔この地には石神世田姫がいて、欽明天皇25年に與止姫神が祀られ、その神様の名前は豊姫とか淀姫と言った」という話が存在していたわけです。
風土記の性質上、その地方の伝説がそのまま掲載されていると管理人は思いますので、当地で呼ばれていたのは間違いなく「世田姫(よた)」 だったのだと思います。
そしてもしも豊玉姫から世田姫が名づけられた(トヨタマ→ヨタの順番)ならば、その変遷について風土記編纂時点で記されていたはずだと思うのです。「世田姫はつまり豊玉姫のことだ」と。
でも、風土記には記紀神話にもない世田姫の名前だけが書いてあります。豊玉姫なんてどこにも出てきません。逸文にもありません。風土記編纂の時点では豊玉姫との関連はなかったのではないか?と思えてしまいます。
それに、もしも豊玉姫の名前が先にあって、その名前が伝わるうちに変化して世田姫となったのであれば、なぜ「石神」の世田姫に「海神」の豊玉姫の名前を付けてしまったのでしょうか。
豊玉姫は水の神様です。世田姫は石神だとハッキリ書いてあります。
風土記が編纂された時点で石神だと言われていた神様にわざわざ海神の名前を付けたというのは、やはり納得いかないですね。
石神(巨石群)だと風土記で書かれている世田姫が海神である豊玉姫のことだと言われるようになったのは、世田姫伝説に登場する海神(鰐)の存在が「鰐つまり豊玉姫のことだ」と認識され、海の魚たちが朝貢しにくるわけですから、そのまま「豊玉姫が世田姫なのだ」と理解されてしまった故ではないでしょうか。
豊玉姫はいわゆる海神(海神の娘で、本来の姿は鰐つまりサメ又はワニ)です。海の魚たちは豊玉姫のいわゆる家来みたいなものです。豊玉姫の話は記紀神話に載っているので、よく知られていた話だったと思われます。そのため、世田姫伝説が海神である豊玉姫の話と混同されて「世田姫=豊玉姫」となってしまったのではないでしょうか。
また、世田姫(よたひめ)が豊姫(ゆたひめ)と呼ばれていたことで、充てられた「豊」の字により世田姫は豊玉姫のことだという認識に変化したのではないでしょうか。
「世田姫」も「與止姫」も、記紀神話には登場しません。どんな神様なのか神話上も定かではありません。いったい誰のことなのか?という疑問があった時に「豊姫」と呼ばれていることを知った他地域の人が「豊玉姫のことだ」と認識してもおかしくはないと思われます。
こういった複合的理由によって「世田姫とは豊玉姫のことである」との考えが広まったのだと思います。「世田姫」→「豊姫」→「豊玉姫」という流れですね。
その後、豊玉姫の「鰐(サメ・ワニ)」が「鯰(ナマズ)」に変化したのでしょう。海ではなく河ですから、海の神(鰐=サメ・ワニ)も河の神(ナマズ)に変化した。だから当地ではナマズは食べない、と。そしてナマズは他の豊玉姫命を祀る神社(例:嬉野市の豊玉姫神社)でも眷属神となっていくのでしょう。
ということで、『肥前国風土記』に記述されている石神「世田姫」が、記紀神話に登場する海神「豊玉姫」と同じ神様であると思われるようになった経緯を、勝手に想像してみました。
読みの変化及び風土記の記述内容(朝貢している)、「豊姫」という別名から、「世田姫」が「豊玉姫」になぞらえられたのではないか、と管理人は考えています。
「世田姫(與止姫)」が「豊玉姫」と同一神だと考えられたのは、少なくとも西暦961年よりも前です。
また、『肥前国風土記』編纂時点(740年頃)は「豊玉姫」の概念はありません。「世田姫」が「豊玉姫」と同じ神様だとしたら、風土記にもそういう記述があるはずなのに、ない。逸文にすらない。逸文では「豊姫」と呼ばれているという記述だけですから、「豊玉姫」の概念はこの時点では無いのです。
つまり、風土記が成立した740年頃から、與止日女神社から勧請された京都府伏見区の「與杼神社」の主祭神が「豊玉姫命」となる961年までの間に、「世田姫=豊玉姫」という考えが成立したことになります。
さて、風土記逸文では欽明天皇25年(564年)に與止姫神が鎮座したと記述されていますが、鎮座した場所の記述がありません。そのまま巨石群に鎮座したのか、それとも現在の與止日女神社の地に鎮座したのか、不明です。
もしも巨石群に世田姫を祀る與止姫神社が創建されていた場合、現在の社殿がある川傍の地に世田姫を勧請しなければいけません。與止日女神社と與止姫神社は同じ神社なのです。いつかは現在地に社殿が建立されていなければなりません。
「世田姫」は石神です。それを川の傍に下ろすということは、それなりの理由が必要になります。
また、もしも欽明天皇25年の時点で既に現在の與止日女神社の地に神社を創建していた場合、なぜ、川上傍という地を選んだのでしょうか。しつこいですが「世田姫」は石神です。それがなぜ、創建時から川の傍に鎮座できるのか。
巨石群にいる「石神」が川傍に祀られる。
普通に考えると、おかしなことです。
でも、もしも「石神」が「海神」と同じ神様だという認識が成立したら?
水の傍に神社が建立されても不思議ではないでしょうね。だって「海神」なのですから。
とはいえ、元は「石神」だったのは間違いないわけです。
「世田姫(與止姫)は石神だけど海神(豊玉姫)でもあるんだって。だから川の傍に祀ろう」という考えがすんなり成立するのか。
世田姫が豊玉姫に取って代わられたわけではないのですから、石神だったという概念は、川上傍に下りてきた時点では消えていないはずだと思います。人の想いは簡単には変えられないのですから、川上傍に祀ろうとした時に、絶対に「元々世田姫は石神なのに」と反対する声があったはずです。「石神」の概念を消し去るような暴挙(笑)を人々は受け入れることができるのでしょうか。
でも、石神世田姫は川上川傍に下りてきました。
なぜ素直に石神世田姫は川上傍に下りることができたのでしょうか?
管理人は、「社殿」がポイントだと思っています。
上記でも説明しましたが、與止日女神社は神階を授けられている由緒正しい神社です。
神階を授けられるためにはそれなりの社殿がないといけませんよね。だって神階つまり位を与えられるのは天皇への奏聞を以て決定されることなのですから。社殿がなければそんなことはできません。
もしも祭神が石神世田姫だけだったならば、社殿は巨石群に建立されていたはずです。
でも巨石群に壮大な(少なくとも神階を受ける程度の)社殿を建立することは難しかったと思われますし、実際に巨石群には祠はありますが社殿の跡はありません。
管理人は、神階を授けられる前には既に、奏聞するに値するような社殿が建立されていたと考えます。
與止日女神社は貞観2年(860年)に従五位下から従五位上になっていますので、それよりも前、つまり従五位下が授けられた時点(860年よりも前。800年代前半か?)にはきちんと社殿が建立されていたと考えられます。
では、神階を受けるためのその社殿はどこの場所に建立されていたのか?
管理人は現在地である川上傍だと思っています。
なぜなら、元々この地(川の傍)に「自然」を崇拝する社があったからです。
(というのが、管理人の妄想説ですよ!)
しつこいですが、『肥前国風土記』には「豊玉姫」の話は記述されていません。逸文が本当に風土記に書いてあった文章だとしても、「世田姫」「與止姫」は「石神」としか書かれていないのです。
「石神」はこの地域の領主的立場の神です。なぜなら「海神」が「海の民」を引き連れて毎年やってきているからです。これを朝貢していると考えた場合(同盟国だったとしても)、「石神」はこの地域での権力者であることは間違いないわけです。
神社が創建された欽明天皇25年(564年)当時、創建された場所が巨石群であっても川上傍であっても、その時の祭神は「石神」です。「海神(豊玉姫)」の概念は存在しません。だって740年頃に成立した『肥前国風土記』には「石神」としか書かれていないのですから。
與止日女神社の創建時、神社が巨石群に建立されたのか川上傍の現在地に建立されたのか、それは誰にもわかりません。でも、「石神」である世田姫を現在地である川上傍に勧請することができた理由の1つとして、「石神」も「海神」も受け入れるだけの器がある、「自然」そのものを崇拝する社が既にこの川傍の地にあったとしたら、世田姫がすんなりと川傍に下りてきたことに納得できるのではないでしょうか。
『肥前国風土記』には、世田姫伝説の前段階として川上に「荒ぶる神」がいたと書かれています。
「世田姫とは(肥前国風土記)」の項目で紹介した武田祐吉編『風土記』の中に、「荒ぶる神」について書かれた部分があるので、ちょっと書き出してみます。
画像自体は既に上記で掲載しているので、今回は文字だけを紹介しますね。
ちょっと「読み」を書くのにカッコが多くなってしまったんですが、まあ、内容が理解できればいいよねって感じです。カッコが目障りですけど、気にしないでください。
引用:『風土記』武田祐吉 編/岩波書店 昭和12年(1937年)
一(あるもの)云(い)へらく、郡の西に川あり、名を佐嘉川(さかがは)といふ。年魚(あゆ)あり。その源は郡の北の山より出で、南に流れて海に入る。山の川上に荒ぶる神あり。往来(ゆきき)の人、半(なかば)は生き半(なかば)は殺(し)にき。ここに縣主等(あがたぬしら)が祖(おや)大荒田(おおあらた)、占問(うらど)ひき。峠に土蜘蛛、大山田女(おおやまだめ)、狭山田女(さまやまだめ)、二(ふたり)の女子(おみな)ありて云ひしく、「下田の村の土を取りて、人形(ひとがた)、馬形(うまがた)を作りてこの神を祭祀(まつ)らば、必ず応(こた)へ和(なご)むことあらむ」と申しき。大荒田すなはちその辭(ことば)のまにま、この神を祭りしに、神この祭りを歆(う)けて遂に応へ和みき。ここに大荒田云ひしく、「この婦(おみな)は是(か)く実(まこと)に賢(さか)し女(め)なり。故、賢し女を以ちて国の名とせむと欲(おも)ふ」と申しき。因りて賢女の郡(さかしめのこおり)といふ。今、佐嘉の郡といふは、訛れるなり。又この川上(かはかみ)に石神(いしがみ)あり。名を世田姫(よたひめ)といふ。‥‥(略)
「荒ぶる神」は祀り鎮められたと風土記に記されていて、この一連のお話が「賢女(さかしめ)」つまり「佐賀」という地名の由来となっています。
「佐嘉川」とは、現在の「嘉瀬川」を指します。「荒ぶる神」は嘉瀬川の氾濫を指す、と言っているサイトもありました。そうかもしれませんね。
ただ、川の氾濫と言われると下流地域だと思うかもしれませんが、「荒ぶる神」がいた場所は、現在の嘉瀬川下流ではなく上流だと考えられます。
風土記は「その源は郡の北の山より出で、南に流れて海に入る。山の川上に荒ぶる神あり。」と言っています。「山の川上」の「山」は、直前の「郡の北の山」を指すと思われます。つまり、上流である「川上」に荒ぶる神がいた、ということですね。嘉瀬川の上流には與止日女神社があり、さらに上流には「巨石パーク」があります。
「荒ぶる神」は「下田の村」の土で作った人形、馬形で祀り鎮められました。サイト『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』の「肥前風土記」のページでは、「下田」とは「梅野下田」のことだと書かれています。では「梅野下田」とはいったいどこの地域のことなのか?
それはなんと!世田姫が石神として祀られていたと思われる巨石群がある「巨石パーク」周辺地域のことなのです。
しかも『肥前国風土記』では、「荒ぶる神」に関する記述の後ろに「又この川上に石神あり。名を世田姫といふ。」と記述されています。「この川上」とは、荒ぶる神がいた「川上」と同じ「川上」を指すわけです。つまり、「川上」には「荒ぶる神」と「世田姫」が存在していたことになります。
「又」という表記で並列的に世田姫に関する記述があるわけですから、「荒ぶる神」と「世田姫」は別の神様だということです。しかし、風土記にはこの「荒ぶる神様」がどこに祀られたのかの記述がありません。
川上の地には「荒ぶる神」と「世田姫」の二神がいて、風土記編纂当時は、巨石群の地には石神である世田姫が祀られ、現在の與止日女神社の地(河上神社)には「荒ぶる神」が祀られていたと考えられていたのではないかと、管理人は勝手に想像しています。
與止日女神社の祭神である與止日女命(世田姫)・豊玉姫命はともに女神です。でも、與止日女神社本殿の千木は男千木ですから、ここには男の神様が祀られています。そして與止日女神社(河上神社)の祭神は「與止日女命神」と「大明神」です。「大明神」とはいったい誰のことか?と考えた時に、管理人はそれが「荒ぶる神」なのではないかと想像します。
嘉応2年(1170年)の與止日女神社の記録では本殿が記されておらず、本来は川を、淵を、山を崇拝する自然崇拝の神社だったわけですよね。「荒ぶる神」を祀り鎮めた地だからこそ自然崇拝が行なわれており、だからこそ違和感なく世田姫(石神)も合祀されたのではないか、と。
参考にした『佐賀県神社誌要』(上記掲載『佐賀県神社誌要』画像参照)では、「大明神」について「祭神大明神は合祀により追加」と記載されています。
この記述を信じると、先に世田姫が祀られていて、そこに大明神が合祀されたことになります。でも管理人はこの『佐賀県神社誌要』の記述をイマイチ信用できません。(石神と海神の関係についての記述等が理由です。後述しています。)
そして結局、「大明神」が誰なのかは『佐賀県神社誌要』には書いていないのです。
世田姫は間違いなく巨石群の地に祀られていました。今でも祠があります。
それがなぜ、今は川上傍に祀られているのか。
石神なのになぜこの地に祀られたのか?川上傍に祀られるためには何か理由があったのではないか?
だって巨石群に祀られているものをわざわざ川の傍に勧請しているんですよ?
石神なのに川傍に祀った理由は何ですか?
それは、元々この地に(川の傍に)「自然」を崇拝する社があったからではないのでしょうか。
「自然」を祀っていたからこそ、そこに石神である世田姫が合祀されても何ら問題など無かったのではないか。そう管理人は思うのです。
ちなみに管理人が考えている石神(世田姫)は、現在の巨石パーク内に鎮座しておられます。
「巨石パーク」などとちょっと笑ってしまうようなネーミングになってますが、ここの巨石群は素晴らしいです。管理人は「石神宮」(管理人が風土記時点で世田姫が祀られていた場所だと考えている祠)や、神秘的な岩の写真(赤い光を発しています)などを撮影していますが、こういうものをネットに挙げるのはなんだか恐れ多い気がしますので公開はしません。
※管理人注
管理人は巨石群に世田姫が祀られていたと思っていますが、管理人が考えるその祠には「石神宮」との銘があります。宝暦13年(1763年)に造られた祠で、『佐賀県神社誌要』に記述されている石神の鎮座地「三面の大石」の描写と同じような場所に鎮座しています。
ちなみに巨石パークの案内チラシには「造化大明神」という名の巨石について「天地万物をお作りなさった神様と言われ、世田姫を祀る。與止日女神社の上宮として明治中頃まで毎年11月20日に祭典を執り行う。」と記載されています。こちらも確かに「三面の大石」ですが、うん、まあ、どちらでもいいですね。
でも管理人は、「石神宮」の祠がある巨石も確かに世田姫を祀っている祠だと思うのですよ。
こういうことを考えている時にいつも思うのですが、実際にその地へ行ってみたらいいと思うのです。
史料に書いてあることだけで論じてしまうのは実証という面では正確ではないですよね。管理人は実際に巨石群を目にして、ここに石神世田姫が祀られていたのだと素直に思いました。
そしてこの巨石群の神をなぜ川傍に祀ったのか、改めて謎に思うのです。石神が川傍に祀られたことに対してどうしても違和感がある。
でも、石神が川傍に「合祀された」と考えれば納得できるのです。
(もはや管理人のフィーリングで書いているような文章になってますね、コレw)
信仰の対象である神が巨石群にしか祀られていない場合は、人々はなかなか訪れることができません。石神宮までは2時間ぐらいかかります。昔は道も整備されていなかったのですから、山道も険しく歩くのに苦労したでしょうし、もっと時間がかかったことでしょう。
川上に既に「自然」を祀る社があったならば、その地へ石神を合祀して丁寧に祀り申し上げる。ええ、違和感はないです。
そして、だからこそ、この辺りの人々が昔から石神世田姫神(巨石群)のことを「上宮」と呼んでいた、という話に納得できるのです。
ここまで書いてきてちょっと面倒くさくなってきたので(笑)與止日女神社の祭神について時系列で考えてみることにします。
以下の流れはあくまでも管理人の妄想ですので詳細な証拠などは求めないでください。
「こういう感じじゃない?」レベルの妄想・推測ですので「違うよ!」という証拠が存在していたとしても、管理人には無関係なことです。知ったこっちゃないですね。(ヒドイw)
たかがファンタジーに異を唱えるのは無粋なことですよ(笑)
管理人は「荒ぶる神」は「大明神」のことだと考えています。
『肥前国風土記』には「山の川上に荒ぶる神あり」と書かれているのですから、川上の地には「荒ぶる神」がいたのです。現在の與止日女神社(河上神社)は川上川傍にありますから、元々この地には何らかの神が祀られていた、それが「荒ぶる神」だったと考えても問題はないと思います。
荒ぶる神は祀り鎮められて「和みき」(『肥前国風土記』)つまりこの地に留まることになった。そのまま自然崇拝の神社へと変化したのだと管理人は考えます。
そして河上神社の祭神は「大明神」ですから、「荒ぶる神」は「大明神」のことだと考えても問題はない、でしょ?
●『肥前国風土記』成立時点(740年頃)では、祭神は石神「世田姫」です。欽明天皇25年の創建当時、巨石群に創建されたのか、川上傍の地に創建されたのかは不明ですが、逸文にあるように祭神名が「與止姫神」であったとしても、あくまでも「石神」として祀られています。
風土記では祭神について「海神」の概念は存在していませんので、欽明天皇25年の創建当時から川上傍に神社が創建されていたとしても、祭神は「石神」です。
●社殿がなければ神階を受けることができないでしょうから、従五位下が授けられた860年より前、少なくとも800年代前半の時点で、既に世田姫はこの地(川上傍)に下りてきて合祀されたと思われます。まあ、これはあくまでも巨石群に創建された神社が川上傍に下りてきた時期の話です。創建当時から川上傍に神社が建立されていたという場合も併せて考えてみると、創建年の欽明天皇25年(564年)から800年代前半までの間に、川上傍に世田姫は下りてきたことになります。(年代範囲、広すぎw)
●川上傍に「石神」が下りてくることができたのは、既にこの地に自然を崇拝する神社(荒ぶる神を祀った神社)が存在していたからだと思われます。
●この地の人々が昔から石神世田姫神(巨石群)のことを「上宮」と呼んでいたのは、世田姫をこの地に合祀した名残だと思われます。合祀しても神は元々のその場所に鎮座しておられるわけで、だからこそ巨石群を「上宮」と呼ぶのでしょうね。
「よとひめ」:その音により「豫等」「與止」「淀」へと変化し、「與止姫」「與止日女」「淀姫」へと変化した
●祭神が「よたひめ」から「よとひめ」に変化したのは、『肥前国風土記』成立の740年よりも前だと思われます。風土記逸文に「與止姫神」という表記があるからです。もしも逸文が後世の作だった場合も、同じく700年代ぐらいには「よと」と言われていたと思います。
●なぜなら、『日本三代実録』貞観2年(860年)の時点で神社名に「豫等」が使われているからです。「等」は「と」と読むべきで「た」とは読みません。「豫等」という漢字は明らかに音から付けられた漢字です。当時の祭神が「よと」と呼ばれていたからこそ、その音に合わせて「豫等」という漢字が付けられ、さらに「與止」の漢字があてられたと思われます。管理人は800年代前半には「豫等」の漢字が使われていたと考えています。まあ、「よた」から「よと」への読みの変化が50年ぐらいでは短い気がしますので、西暦700年代ぐらいには既に「よと」と言われていたと思います。(なんて強引w)
●石神「世田姫(よたひめ)」が川上傍に合祀されたのは創建年の欽明天皇25年(564年)から800年代前半までの間だと上記で書きましたが、もしかすると合祀を機に「よた」から「よと」に正式に読みが変えられたのかもしれません。(あくまでも管理人の想像)
●以降、「與止」(927年『延喜式』)の字や「淀」の字が使われ、祭神は「よと(ど)ひめ」となります。
「ゆたひめ」:「豊(ゆた)」の字を以て「豊玉姫」になぞらえられた
●「よたひめ」が「ゆたひめ」という読みに変化したのはいつ頃なのか、不明です。管理人の想像では「よとひめ」に変化するのと同時期だと思います。まあ、勘です。
●「ゆたひめ」という読みに対して「豊(ゆた)」の字があてられていたことは『肥前国風土記逸文』に記述されています。逸文が後世の作ではなく風土記に記述されていた文章だとしたら、風土記成立時点の740年頃には「豊姫(ゆたひめ)」と言われていたことになります。
●管理人は「豊姫」表記及び『肥前国風土記』の「海神が毎年やってくる」という伝説の内容により、「豊姫」は「豊玉姫」のことだと考えられるようになった、と考えています。
●「豊姫」が「豊玉姫」のことだと考えられるようになったのは、川上傍に合祀された時期より前のことだと思われます。なぜなら「川上」傍に合祀されているからです。
確かに「荒ぶる神」つまり自然崇拝の神社が既にあったから「石神」世田姫が川上に下りてくることに違和感はありませんが(これは管理人の説です)、「川上」にすんなり下りてきた理由のひとつに「世田姫=豊姫=豊玉姫」の概念が既に存在していたことも挙げられると思います。「海神」「水の神」だからこそ川上に下りてくることが可能となったのでしょう。
石神世田姫が川上に下りてきたのは神階が授けられる前だと思われますので、800年代前半ぐらいまでには「豊姫」が「豊玉姫」だと考えられるようになったと思われます。
●この考えは、あくまでも神社創建が巨石群の地だった場合の話です。初めから川上の地に神社が創建されていた場合は、豊玉姫の概念は存在していません。神社創建当時の祭神は「石神」だからです。
とはいえやはり、「豊姫」表記や海神の朝貢伝説により「豊姫」が「豊玉姫」のことだと考えられるようになっていったのだと思います。
●『延喜式神名帳』(927年)での與止日女神社の祭神は「與止姫」つまり「よと(ど)ひめ」です。しかしこの時期には既に「與止姫=豊玉姫」の概念は成立していたと考えます。なぜなら800年代前半ぐらいまでには川上の地に世田姫が下りてきたからです。961年に與止日女神社より勧請された京都與杼神社の祭神は豊玉姫なので、900年代には明確に「世田姫=與止姫=豊玉姫」の概念が成立していたと思われます。でも、祭神「與止姫」が「豊玉姫」に取って代わられたわけではありません。あくまでも並立していると考えられます。
世田姫(よたひめ)の読み方が「よとひめ」「ゆたひめ」に変化した当初つまり『肥前国風土記』編纂時点の740年頃より前は、まだ世田姫には石神の概念しかなかったはずです。しかし、世田姫を巨石群から川上川傍へ勧請しようという動きが人々の間で起こった頃には既に「ゆたひめ」読みからの「豊姫」、「豊玉姫」への変換が起こっていたと思います。
●「よたひめ」から「よとひめ」へ
読み(音)の変化に合わせて「豫等」「與止」の漢字があてられています。読み(音)が変化して祭神名が変わっただけですから、この時点では「よとひめ」には「石神」の概念が存在していると考えます。「よとひめ」読みは「石神」の存在を表しているのではないでしょうか。
●「よたひめ」から「ゆたひめ」へ
読み(音)が変化して「ゆた」読みになったことで「豊(ゆた)」の字があてられました。この「豊」の字から「豊玉姫」がなぞらえられ海神の概念が付加された、つまり「ゆたひめ」読みは「海神」の存在を表しているのでしょう。
●祭神が並立する
「石神」と「海神」の概念を容易に並立させ得たのが祭神「淀姫」の存在なのかもしれません。
「淀」の字は明らかに「水」を意味します。川の淀みが神格化されて「淀姫」という字があてられたと考えられますが、この時点で実は「石神」と「水の神」の概念を両立させているんですよね。「よとひめ」という「石神」に対する読みでありながら「水の神」を意味する漢字があてられているのですから。
そして「淀姫」という字があてられたことにより、「よとひめ」が「川の神」になったと考えられると思います。ここまで管理人は「海神」と「水の神」を併用(と言うより混同w)してきましたが、「淀」の字が使われていることから、やはりこの時点で「川の神」に変化しているのだと思います。
世田姫が川上傍に合祀されたことで、與止日女神社の祭神には「石神」と「海神」の両概念が並立することが明確になり、やがて「水の神」へと変化する。
そして時代が下るにつれ「石神」の概念が薄れていく。「淀姫」という表記にもそれが表れていると管理人は考えているわけです。(石神「世田姫」を表すのは「よとひめ」という読み部分だけになってしまった)
そしてその結果、「與止姫」と言われても何の神様なのか、正確なところがわからなくなっていったのではないでしょうか。
もちろん祭神がわからなくなるわけはなくて、祭神はもちろん「與止姫」です。でもこの神社の名前としては「與止姫」以外に「淀姫」があり、「淀姫」という祭神名は見ただけで「水の神」を表すと理解できるわけです。
では神社名の「與止姫」は何を表しているのか?いったいどこから「與止」はきたのか?ここで祭神に対する逆転現象が起こっている(「與止姫」→「淀姫」と変化したものが、「淀姫」がクローズアップされることにより「淀姫」=「與止姫」の根拠がわからなくなっている)と管理人は考えるわけです。
確かに「よとひめ(石神)」と「豊玉姫(海神)」は並立して存在していたのに、「よとひめ」という読みだけが残ったことで「與止姫」が誰を指すのかわからない。だからこそ下記で紹介しているように、「與止姫=神功皇后の妹」説が浮上してくる余地があったのです。
「與止日女命は神功皇后の妹」という説を世間的に確定させたのは『神名帳頭註』(1503年)ですが、鎌倉時代には既に妹説が流布していたようです。
とりあえず、江戸時代の国学者伊藤常足が天保12年(1841年)に著した『太宰管内志』(九州全域の詳細な地誌)を確認してみたところ、與止日女神社に関する色んな説が掲載されていました。その中で、鎌倉時代後期に成立した『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』を引用している箇所があったので、書き出してみたいと思います。
ちなみに管理人が確認した原文は、「国立国会図書館デジタルコレクション」に画像があった明治41年発行の『太宰管内志下巻』の文章です。漢文表記だったりするのでさらっとしか読んでいません。適当に抜き出します。
あ、適当に作業していたら『肥前古跡記』の文章まで抜き出してしまいました。ま、いいか。
●【肥前国風土記の世田姫伝説部分を記載した後、「宇佐宮縁起」を引用した後で】
[八幡愚童訓]にも皇后の御妹豊姫に高良藤大臣物部保連を添て磯良と龍宮に使はして玉を借り玉ふ事見えたりまた豊姫とまをすは河上大神の御事なりともあり
●【逸文の「豊姫」部分を記載した後で】
[八幡愚童訓]に神功皇后二人ノ御妹座(マ)す 一人ハ宝満大菩薩一人ハ河上大明神也、[肥前古跡記下巻]に河上大明神云々河上與止女大明神本地十一面観音幷神功皇后ノ御妹也蒙古退治ノ時長門ノ沖にて龍宮に至り玉ひ干珠満珠を借得玉ひし姫宮也
神功皇后の三韓征伐に関する神話の中で、神功皇后が龍神から「干珠・満珠」の2つの珠を借りたという話がありますが、この時に珠を借りに行ったのが、神功皇后の妹「豊姫」つまり河上大神(河上大明神)のことだと言われています。というか、ハッキリと「神功皇后には二人の妹がいて、一人は宝満大菩薩でもう一人は河上大明神」とか言われてますね。
ついでに『神名帳頭註』(1503年)に記載されていた文章も、『太宰管内志』から引用しておきます。
●[乾元二年ノ記]云淀姫大明神ハ八幡宗廟之叔母神功皇后之妹也三韓征伐ノ昔ハ得干満両顆没異賊ノ凶徒於海底文永弘安ノ今ハ施神変風雨碎幾多ノ賊敵於波潯云々なども見えたり
「淀姫大明神ハ八幡宗廟之叔母神功皇后之妹也」と言っています。これが「與止日女命は神功皇后の妹」説を確定させたのだと言われています。
與止日女神社境内には「河上神社金精さん」という自然石があります。この由来として、「その昔 神功皇后三韓征駐の折り 当地におとどまりなされし 妹君の与止日女様が 子宝に恵まれぬために ひそかに館の一隅にあった 男根の自然石に 肌をふれて 子宝を願ったところ、色あくまで白く、きめこまやかにして 玉の如き子供が授かったという。 以来金精さんとして河上神社の一隅に安置してありましたが、今度皆様の要望により一般に公開致します。」と記載されています。
神功皇后が三韓征伐の際に当地に滞在して、妹の與止日女が子宝に恵まれるように祈願したという伝説が伝わっていることから、與止日女命は神功皇后の妹だという説が大々的に伝えられていることがわかります。
「與止姫」とはいったい誰を指すのか正確にはわからなくなってしまった結果、神功皇后の妹だとして世間にアピールして、神社の格を上げる方向に動き出したのではないでしょうか。(とかまあ、テキトーに考えてみましたw)
大明神、どこに行ったんでしょう?
もう完全に「荒ぶる神」は見えなくなってしまいましたね。
河上神社には「與止日女神」と「大明神」が祀られていたはずなのに、主神は「與止日女神」の方になってしまったようです。『神名帳頭註』による神功皇后の妹説で大フィーバーとなった結果でしょうね。
河上神社(與止日女神社)本殿は文化10年(1813年)に焼失し、文化13年(1816年)に再建されています。
河上神社が再建される前から男千木だったかどうかは管理人にはわかりません。でも、男千木で建立されているということは、「この河上神社には男の神様がいる」ということです。「與止日女」も「豊玉姫」も女性の神様です。女性の神様しかいないのに、千木を男千木にすることはないでしょう。
河上神社には男の神様がいます。その男の神様とは、「與止日女神」ではないならば、「大明神」ということになります。
では「大明神」とは誰なのか?
謎の神様「大明神」は、世田姫と同時期に川上に祀られたと『肥前国風土記』に記述されている「荒ぶる神」のことだと考えても、別に問題はないのではないでしょうか。
ということで、長々と書いてきましたが、管理人自身も混乱してきたので終わりたいと思います。
與止日女神社については様々な方が様々な考えを持っておられて、今回は本当に勉強になりました。
ここまでの長文や上記まとめに書いた内容は所詮、管理人の妄想です。いわゆる論文のように参考文献にあたったり史料を自分の目で確認したり、そういう作業は一切していません。ネットで読んだ誰かの説に乗っかっている部分も多々あります。
内容を読んでみたら、誰かの説をパクっているように思われるかもしれませんね。もちろん影響されているのは間違いありませんから、ここで謝罪しておきたいと思います。申し訳ありませんでした。
與止日女命とは誰のことなのか、調べれば調べるほど面白いです。
「世田姫」「與止日女」「淀姫」「豊姫」「豊玉姫」「神功皇后の妹」「海神の娘」「卑弥呼の宗女壹與」「熊襲の王川上梟帥(かわかみのたける)の妹」など、本当に色んな説があります。
そして大明神についても諸説あります。熊襲の王川上梟帥説には管理人も納得してしまいますね。
でも、これ以上ハマると抜け出せそうにありませんので、中途半端ですが、このあたりで駄文を終わりにしておきます。ありがとうございました。
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【参考にさせていただいたサイト様】
○『肥前国ミステリー「與止日女命」』
○『淀姫(ヨドヒメ)/久留米地名研究会』
○『よみがえる壹與 佐賀県「與止姫伝説」の分析』
○『與止日女神社』
○『佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳』
○『国立国会図書館デジタルコレクション』
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740年頃に成立したといわれる『肥前国風土記』の原本は、もちろん存在していません。
存在していたらビックリです。
『肥前国風土記』には「写し」が存在していて、刊行本としては寛政12年(1800年)5月発行のものが初めてだといわれています。長崎の大家惟年が所持していた書を荒木田久老が校正して出版しました。この寛政12年版を「久老本」と呼び、『肥前国風土記』の原本のような扱いとなっています。
その後、粟田寛の標注本(久老本に標注を加えたもの)や、古写本の影印本(南北朝以前の写本:猪熊本)なども出てきたようで、それらを比較参照しつつ、改良というか注釈をつけて考察・出版する、といった形で『肥前国風土記』は流布してきたようです。
いやまあ、よくは知りませんけども。
『肥前国風土記』の原本のような扱いになっている、寛政12年版の「写し」である久老本ですが、この本はちょっとクセモノのようで、間違っているところがあるらしいです。
管理人は今回、「国立国会図書館デジタルコレクション」で『肥前国風土記』を検索してみました。
最初に検索結果として表示された本の「世田姫」部分をさらっと読んだ時に驚いたのが、世田姫が出てくる箇所の「海神」の扱い方です。
管理人が読んだ本は、久老本を元に構成された本でした。
肥前国風土記の「久老本」に記述されている原文(漢文)を書き出してみます。
此川上有石神。名曰世田姫。海神年常逆流潜上到此神所。海底小魚多相従之。或人畏其魚者無殃。或人捕食者有死。凡此魚経二三日還而入海
久老本では、この原文の最初の部分について
此の川上(かはのび)に石神あり。名を世田姫と曰へり。海の神なり。年常(わに)[鰐魚を謂う]逆流(さかまくみづを)潜上(くぐりのぼりて)此の神の所(みもと)に到る。
と校正されています。
なんと、世田姫のことを思いっきり「海の神なり」と言い切っているのです。
つまり世田姫は石神でしかも海神だ、と言っている。
今回與止日女神社について考察するにあたり、管理人は上記で紹介した大正15年出版の『佐賀県神社誌要』を先に読みました。「河上神社」の御由緒が記載されている本です。
『佐賀県神社誌要』は久老本を元に記述されているようで、「世田姫海神と云ふ」と書き下してありました。世田姫は海神だ、と言い切っているわけです。
管理人は「えーマジかよ!」と驚愕し、「このままだと管理人の考えと合わないじゃん!」と焦ってしまいました。
なぜなら、管理人は「石神である世田姫のもとに海神(鰐魚)が魚を引き連れてやってきていた。この伝説から海神つまり豊玉姫が連想されるようになり、世田姫=豊玉姫と考えられるようになった」と考えていたからです。「世田姫海神と云ふ」と『肥前国風土記』に記述されていたら、『肥前国風土記』に世田姫が登場した時点で海神つまり豊玉姫と同一神だと思われていた、ということになってしまいます。
確かに久老本は『肥前国風土記』の原本とされる「写し」です。
でも、該当箇所の原文を管理人が読んでみると、どうしても世田姫と海神は別人のように読めてしまいます。色々と考えてみたけど、やっぱり世田姫と海神は別人なんだと思うんです。
ちなみに、原文はもちろん白文(句点や返り点なし)で表記されているので、どの部分で切るのかは、読んでいる人の意味の取り方次第になります。なので、管理人の読み方と久老本の読み方が違うのは当然です。
それでも、管理人は納得がいかないわけですね。
『肥前国風土記』の原文(漢文)をもう一度書き出してみますね。
今回は白文を書いておきます。
此川上有石神名曰世田姫海神年常逆流潜上到此神所海底小魚多相従之(以下略)
「謂鰐魚」という注釈が、この白文の「海神」の後ろ又は「年常」の後ろに入ることになります。
久老本では「年常」の後ろに入っています。管理人が参考にした武田祐吉編『風土記』の中の『肥前国風土記』佐嘉郡条では、「謂鰐魚」という注釈は「海神」の後ろに入っています。
とりあえず「謂鰐魚」についてはちょっと置いておいて、原文の「此川上有石神名曰世田姫海神年常逆流潜上到此神所」を見てみます。
まず、どう考えても「名曰世田姫」で切れますね。これは異論はないでしょう。
次の「海神年常逆流潜上到此神所」ですが、管理人は、「海神」と「年常」の間では切れないと思いますね。つまり「海神なり」という読み方にはならないと思います。
だって、後ろの「逆流潜上到此神所」(流れを遡ってこの神のところにやってくる)のは誰?ってことになってしまうじゃないですか。主体がいなくなってしまいます。
「名を世田姫と曰う。」「海神なり。」と読んでしまうと、「この神のところ」に流れを遡ってやってくるのは誰なのか。該当箇所直後に記述されている「年常」がやってくる、ということなのか。
でも「年常」って「年」という漢字がある以上は、期間や年月を指すわけです。そして実際に「年常」という単語も存在していて、それは「としごとに」つまり 「毎年」という意味になります。
などと考えると、やはり管理人的には「海神なり」とは読みたくないですね。
もはや管理人も意固地になっているのかもしれませんが、「海神なり。」と切って読んでしまうと、この神のところにやってくる主体はどうしても「年常」にならざるを得ません。
だから久老本は「年常」を「謂鰐魚」と読んだのだと思うのです。「謂鰐魚」という注釈を「年常」の後ろに入れて、「年常=鰐魚(ワニ)」と読んだのでしょう。
もしも久老本の言う通りに「海神なり。」で切り、しかも「年常=鰐(わに)」だと考えると、「世田姫=海神」であり、「海神は鰐ではない」ということになります。(この場合ワニは「年常」です。「海神」ではありません)
こうなってしまうと、しつこいですが、「世田姫が豊玉姫になぞらえられた」「海神である鰐(ワニ)が魚を引き連れてやってきていたという伝説から豊玉姫が連想されて、世田姫が豊玉姫になぞらえられたんだ」という管理人の考えは成立しなくなってしまいます。
「これはヤバイ!全部考え直さないといけなくなる!」と思って色々と国立国会図書館のデータを漁っているうちに、
●久老本は間違っている!
●海神は句の頭だ!
●[鰐魚を謂う]は年常の後ろではなくて海神の後ろに入るのだ!
●そう書いてある写本も実際にあるんだ!
と叫んでおられる考察本『肥前風土記新考』(井上通泰 著 1935年)を見つけました。
管理人は喜んでこの説に乗っかりたいと思います!!
乗っかると、管理人が上記で書いた「世田姫が先にあって、豊姫と呼ばれていたから豊玉姫になぞらえられた」「海神(鰐)が朝貢しに来ていることが後々海神=豊玉姫となって、豊玉姫になぞらえられた」説が、原文と照らし合わせても成立するわけです。
なので管理人と同じ考えを書いてあった井上説に完全に乗っかります。
井上通泰著『肥前風土記新考』は、読んでみるとなかなか面白いです。
久老本の「川上(かはのび)」読みも、この本では「川上をカハノビとよめるはわろし」とか書いてありました。「わろし」ですよ?ストレートにディスっていて面白いですね。「川上」は素直に「かわかみ」と呼んで良いみたいです。
「海神を久老が上に附けてウミノカミナリとよめるはいといとわろし」だそうですよ(笑)
ちなみに、今回管理人は「国立国会図書館デジタルコレクション」に掲載されている関係本しか読んでいませんので、管理人の知識はだいたい昭和初期に記述されたものに偏っています。
『肥前国風土記』に関しては、その後、色んな関係本が出版されていると思いますが、管理人の説に合致する本を見つけたので、もういいです。面倒くさいので他の説をあたるようなことはしません。
久老本こそ正しい!というような内容の本があるかもしれませんが、もう、どうでもいいです(笑)
上記でも書きましたが、大正15年(1926年)に発行された『佐賀県神社誌要』は『肥前国風土記』の原本として久老本を訳しているので、「肥前風土記に曰く、此川上に石神あり、世田姫海神と云ふ、年常(謂鰐魚)逆流潜上して、此神の所に到る、海底の小魚多く之に従ふ、其魚を畏るゝ者は殃なく、其魚を捕食する者は死す、此魚二三日を経て還て海に入ると。」と記述してあるのだと思います。
「此魚二三日を経て」との記述からも、『佐賀県神社誌要』が久老本を採ったことがわかります。
久老本の後から出てきた古写本の影印本(南北朝以前の写本:猪熊本)では、久老本で使われていた「経」の字ではなく「住」の字が書かれています。管理人が上記で紹介し、自分の考えの参考にした武田祐吉編『風土記』では、「二三日を経て」の部分は「二三日住(とどま)りて」と書き下されています。意味を考えると「住(とどま)りて」の方が、しっくりきますね。
ということで、『佐賀県神社誌要』の河上神社に関する記述は、『肥前国風土記』久老本を元に記述されているため、管理人はイマイチ信用できません。
他にも、『佐賀県神社誌要』では「延喜式内の社にして、大日本国鎮西肥前第一之鎮守宗廟正一位河上由淀姫大明神一宮との後陽成天皇の勅額あり。」と記述されていますが、『與止日女神社』のサイトに掲載されている後陽成天皇の勅額の写真を見ると、「大日本国鎮西肥前州第一之鎮守宗廟河上山正一位淀姫大明神一宮」と書かれています。
些細な違いなのかもしれませんが(『佐賀県神社誌要』の記述には「肥前州」の「州」の字が無いこと、「河上山正一位」ではなく「正一位河上山」と記述されていること)、現物が残っている状態でのこの明確な間違いは、『佐賀県神社誌要』の記述の信用性に関わる大事なことだと思われます。
結局、『佐賀県神社誌要』の河上神社に関する記述は管理人が採りたい説とは違う説を書いているわけですから、そんなに信用しなくてもいいんじゃない?ってことですね!(オイw)